芳村(よしむら)透は、どこにでもいる平凡な会社員だ。
朝はコーヒー、昼は弁当、夜はコンビニ。
そんな彼にとって、唯一のこだわりが「麻婆豆腐」だった。
初めて麻婆豆腐を口にしたのは、小学三年の頃。
母親が風邪をひいて寝込んでいた日、父が台所に立ち、缶詰の豆腐と市販の素で即席で作ったのが始まりだった。
決して美味とは言えない、豆腐は崩れ、ひき肉は少ない、味も濃すぎた。
だが、そのときの温かさとピリリと舌に残る辛さが、なぜか透の心を掴んで離さなかった。
以来、彼は麻婆豆腐の虜となった。
高校時代は弁当に冷めた麻婆豆腐を詰めて持っていき、大学では中華料理屋を巡る「麻婆遠征」を毎週のように決行した。
四川風、広東風、日本風。
甘口から激辛、花椒たっぷりの本格派まで、数え切れないほどの店を巡り、自らも料理を学び、改良を重ねた。
だが、社会人になってからというもの、忙しさにかまけて外食もままならず、自炊する気力も失っていた。
コンビニで買ったレトルトの麻婆豆腐で妥協する日々が続いていた。
味気ない。
だがそれでも、麻婆豆腐を食べると、なぜか少しだけ前向きになれた。
ある日、会社の近くに「麻辣園(マーラーえん)」という中華料理店が新しくオープンした。
小さな店構えに、赤い提灯がひとつ。
口コミサイトにはまだ情報が少なかったが、透は吸い寄せられるように暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
出迎えたのは、年若い女性の店主。
エプロン姿に短く切り揃えられた前髪が印象的だった。
「麻婆豆腐を一つ、お願いします」
注文して待つ間、透は香辛料の香りに包まれていた。
四川山椒のしびれ、豆板醤の深み、花椒油の香ばしさ。
香りだけで胃が鳴る。
そして出てきた麻婆豆腐は、今まで彼が食べてきたどの一皿とも違った。
見た目は素朴だが、豆腐の切り方ひとつにまで気配りが感じられる。
口に入れた瞬間、痺れと辛さの奥に、静かな優しさが広がった。
「これは……」
「うちのレシピは、母が四川から持ってきたものなんです。でも、私なりに少しだけ、日本の味も加えてます」
その日から、透は「麻辣園」に通うようになった。
店主の名前はリナ。
日本生まれの中華系二世で、かつて母とともにこのレシピを磨き上げたという。
母はすでに他界していたが、その味だけは、リナの中に生きていた。
ある雨の日、透はいつものように店に入り、麻婆豆腐を頼んだ。
するとリナが言った。
「今日は少し違う味、試してみますか? 実は、お客さんを見て考えてたんです。あなたが本当に好きな麻婆豆腐って、どんな味だろうって」
出てきた皿は、見た目こそいつも通りだが、香りにどこか懐かしさが混じっていた。
口に入れた瞬間、透は目を見開いた。
「これ……父が作ってくれた、あの味に近い……」
リナは微笑んだ。
「たぶん、お父さんも“誰かのために”作った麻婆豆腐だったんだと思いますよ」
その日、透は店を出るとき、深々と頭を下げた。
麻婆豆腐はただの料理じゃない。
記憶を呼び起こし、人と人をつなげる魔法のような存在だと気づいたから。
帰り道、冷たい雨の中、透は思った。
「また、作ってみよう。自分の手で、誰かのために」
麻婆豆腐は、ただ辛いだけじゃない。
人生に寄り添い、心を温めてくれる。
透にとって、それはもう、好物以上のものだった。