月灯りの大福

食べ物

春野遥(はるのはるか)は、三十歳を目前に控えた会社員だ。
職場では無難に働き、友人とは適度な距離を保ち、恋愛はご無沙汰。
そんな彼女の唯一の楽しみは、大福を食べることだった。

白あん、黒あん、よもぎ、いちご、塩豆、ティラミス、チョコレート、マスカルポーネ――今や大福の世界は、和と洋の境を軽やかに飛び越えている。
遥はそれを一つ一つ確かめながら、生きる意味を噛みしめるように味わっていた。

ある日、彼女は職場帰りにふと立ち寄った古びた和菓子屋で、「月灯(つきあかり)」という名前の大福を見つけた。
餅の表面にはうっすらと銀粉がまぶされ、まるで夜空に浮かぶ月のように見える。

「珍しいですね、これ」

「これはね、夜だけに売ってるんだよ。中には塩あんと、すりおろした柚子の皮が入ってる。ちょっと大人の味さ」

そう語ったのは、小柄で背筋の伸びた老女だった。
店主らしく、白い割烹着がよく似合っている。

遥はその「月灯」を買い、帰宅後、暖かいお茶を淹れてゆっくりと味わった。

──その瞬間、彼女はふと、幼い頃に祖母と一緒にこたつで食べた大福の記憶を思い出した。
まだ雪の残る早春、祖母の家の縁側で、柚子の香りのする甘いものを食べた記憶。
ぼんやりとした記憶だったが、「月灯」の味はその感覚を明確に引き寄せた。

翌週、遥は再びその店を訪れた。

「美味しかったです。『月灯』。もう一度いただけますか?」

「あら、それは嬉しいね。実はね、あの大福、作るのがちょっと手間でね。わたし、もう歳だから、後継ぎもいないし……いつまで作れるか分からないんだよ」

遥は胸の奥が、きゅうと締めつけられるのを感じた。
こんな素敵な味が、いつか消えてしまうなんて。

「もし、わたしが習ったら……ダメですか?」

自分でも驚くような言葉が口をついて出た。
和菓子職人でもなんでもない自分が、何を言っているんだろう。
けれど、老女はふっと笑った。

「……そんなふうに言ってくれたのは、あなたが初めてだよ」

それから、遥の週末は一変した。
早朝から和菓子屋に通い、老女――藤崎つね――の手ほどきを受ける日々が始まった。
餅米を蒸し、餡を練り、柚子を丁寧にすりおろす作業。
ひとつひとつは地味で根気のいるものだったが、遥は不思議と苦にならなかった。

ある日、遥は仕事帰りの帰宅電車で隣に座った若い女性と、何気なく会話を交わした。

「この包み……大福ですか?」

「はい、ちょっと変わったやつなんです。柚子と塩あんで、『月灯』って名前で……」

「わあ、素敵。名前も綺麗ですね。売ってる場所、教えてもらえませんか?」

その日から、少しずつ、「月灯」のファンが増えていった。
遥は店のInstagramを開設し、つねの了承を得て写真やエピソードを投稿した。
店にはぽつりぽつりと若い客が訪れるようになった。

そして、ある春の日。
つねがふとつぶやいた。

「そろそろ、この店……あなたに任せてもいいかもしれないね」

涙が出そうだった。
こんなに真剣になれるものに、出会えると思っていなかった。

半年後、遥は会社を辞め、正式に「和菓子処 藤月(とうげつ)」を継いだ。
屋号はつねの名前と「月灯」を掛け合わせたもの。
今では、季節ごとにさまざまな大福が並ぶ。

──夏はパッションフルーツと白餡の「夕凪」、秋は栗と焦がし醤油の「月影」、冬はラム酒とココア餡の「冬灯(ふゆあかり)」。

そして変わらぬ人気を誇るのは、夜にだけ並ぶ「月灯」。

遥は今夜も店の奥で餅を伸ばしながら、そっとつねの言葉を思い出す。

「大福はね、ただの餅菓子じゃないよ。その人の記憶と心を、まるごと包むものなんだ」

彼女の手の中で、大福は今日も静かに、誰かの思い出になる準備をしていた。