陽子(ようこ)は幼い頃から梅干しが好きだった。
ただの好きではない。
人がスイーツに目を輝かせるように、彼女は梅干しに心をときめかせた。
「お弁当、今日も梅干しだけ?」
母は時々、心配そうに尋ねた。
ご飯の真ん中にぽつんと置かれた梅干し。
それだけで陽子は満足だった。
小学校の頃、クラスで流行っていたのはキャラ弁や、カラフルな冷凍食品の数々だった。
だが、陽子の弁当箱にはいつも白ご飯と、真っ赤な梅干しがひとつ。
友達にからかわれたこともある。
「ねえ、陽子んち貧乏なの? それとも罰ゲーム中?」
そんな言葉にも、陽子は「梅干しってすごいんだよ」と真顔で返していた。
クエン酸は疲労回復に効くし、防腐効果もある。
昔の人の知恵が詰まってる、偉大な食べ物なんだと。
高校に入ってからも、陽子の梅干し愛は変わらなかった。
むしろ年々深まっていった。
彼女は「梅干し研究ノート」を作り、品種ごとの味、酸味の強さ、塩分濃度の違いを記録するまでになっていた。
ある日、クラスの文化祭企画会議で陽子は言った。
「うちのクラス、梅干しカフェやらない?」
教室は静まり返った。
が、陽子は真剣だった。
「飲み物は梅ジュース。スイーツも梅のジャムとか、はちみつ梅のケーキとか。甘いのが苦手な人にも楽しんでもらえるし、ちょっと健康志向でいこうよ!」
最初は戸惑っていたクラスメイトたちも、陽子の熱意と、彼女が持ってきた自家製の梅ジャムに心を動かされ、最終的には「梅干しカフェ『うめうめ亭』」が開店することになった。
文化祭当日、「うめうめ亭」は予想外の人気を博した。
梅ジュースを一口飲んで「意外と美味しい」と言う人、酸っぱい梅干しを一粒かじって目を見開く人、自家製梅ジャムを買って帰る人もいた。
陽子はふと思った。
——わたし、梅干しで誰かを笑顔にできるんだ。
大学では食品科学を専攻した。
卒業後、地元の梅農家に就職し、梅干し作りの現場に立った。
夏の炎天下、汗をかきながら梅を天日干しする日々は大変だったが、陽子にとっては夢のような時間だった。
ある年、全国梅干しコンテストで彼女が手がけた「はちみつしそ梅」が金賞を受賞した。
柔らかな果肉、甘さと酸味の絶妙なバランス、そして後を引く旨みが高く評価された。
だが、陽子はそこで満足しなかった。
「もっとたくさんの人に、梅干しの良さを知ってほしい」
そう考えた彼女は、梅干しを通じて地域活性化を図るイベントを企画した。
子ども向けの梅干し作り体験、梅を使ったレシピコンテスト、地元の梅農家との交流会。
どれも手作り感あふれる、小さなイベントだったが、参加者の笑顔は何よりの報酬だった。
ある日、イベント会場にひとりの小さな女の子が来た。
母親に手を引かれながら、不安げに陽子を見つめていた。
「これ、すっぱいの?」
女の子は梅干しを手に取り、おそるおそる口に運んだ。
しばらくして、顔をしかめたかと思うと、次の瞬間、にっこりと笑った。
「……おいしい!」
陽子は思わず涙がこぼれそうになった。
梅干しは地味で、時には「おばあちゃんの食べ物」とも言われる。
だが、そんな食べ物に心を込めて、人生をかけて向き合ってきた自分が、ようやく報われた気がした。
あの日、お弁当に一粒の梅干しを入れてくれた母の思い出も、口の中に広がる。
陽子は今日も、小さな梅の実に向き合っている。
その一粒が、誰かの記憶に残る味になることを願いながら。