深夜0時。マンハッタンの地下鉄Cライン、59丁目の駅。
ホームには数人の酔客と、スマホに夢中の若者たち。
誰もが無関心を装い、目を合わせない。
だが、その中にひとり、周囲とは明らかに違う雰囲気の少女がいた。
リナは23歳。
日本から一人でニューヨークに来て3ヶ月、アートスクールに通っている。
今夜は課題に追われて帰宅が遅くなった。
スケッチブックを抱え、ベンチに座りながら電車を待っていた。
そのとき、向かいのホームに小さな影が見えた。
10歳くらいの少年。ボロボロのフード付きのコートを着て、靴紐がほどけている。
手には段ボールで作った小さな看板。
「Need help. Anything helps.」——助けを必要としている。
リナの心がちくりと痛んだ。
ニューヨークではこうした子供を見ることが稀ではない。
だが彼女はいつも見て見ぬふりをしてきた。
「自分には何もできない」と。
しかし今夜は、違った。
彼女は立ち上がり、反対側のホームへ行こうとした——そのとき、電車が来た。
風が吹き抜け、視界が遮られた。
電車が過ぎ去った後、少年の姿はなかった。
「まさか…」と不安が胸をよぎったが、ベンチの下に、小さな紙が落ちているのを見つけた。
拾い上げると、それは絵だった。
クレヨンで描かれた、自由の女神と子犬。
そして、下に英語でこう書かれていた。
“One day I’ll be free too.”(いつか僕も自由になれる)
リナは胸が締めつけられた。
この街で、自分だけが孤独ではないと気づいた。
彼女は絵をバッグに入れ、アパートに帰ると机に向かい、一晩かけてその絵を模写した。
そして、次の授業でその絵を教授に見せた。
「これは、君が描いたのか?」
「いえ、ある少年が。地下鉄で見かけたんです。でも、彼のことを見失ってしまって…」
教授は静かにうなずいた。
「リナ、君は“都市の声”を拾ったんだ。この作品は展示に値する。」
それから数週間後、その模写作品はスクールのギャラリーに展示され、小さな注目を集めた。
新聞の地元欄にも取り上げられ、写真とともに紹介された。
「名もなき子どもが描いた、ニューヨークの夢」と。
ある日、展示の前で少年が立ち止まっていた。
リナは目を見張った。
「君…!」
少年はうつむきながら小さく笑った。
「あの絵、覚えてくれてたんだね。」
「君を探してたの。名前、教えてくれる?」
「エリオット。」
彼の目は大人びていて、それでいて希望を宿していた。
その日から、リナはエリオットと連絡を取り合い、彼の描いた絵をSNSで発信し始めた。
少しずつフォロワーが増え、彼の絵に惹かれる人が現れた。
あるNPOが彼に支援を申し出て、正式な保護プログラムに繋がるきっかけとなった。
ニューヨークの街は時に冷たく、そして時に、奇跡のような出会いをくれる。
人混みの中で交わされた、ひとつの視線と、ひとつの絵が、少年と少女の人生を変えた。