陽が落ちかけた商店街を、さゆりは小走りで駆け抜けた。
駅前のベンチに座るあの人の手には、いつもチョコレートドーナツがある。
今日も、きっと。
「間に合え、間に合え……!」
さゆりが目指すのは、商店街のはずれにある小さなパン屋「サンリオ」。
焼きたての香ばしい匂いが、店の外まであふれ出している。
ガラガラとドアを押すと、顔なじみの店主が顔を上げた。
「あら、さゆりちゃん。今日もチョコド、だね?」 「はい!まだ、残ってますか?」
「もちろんさ」とにっこり笑って、カウンターの奥から、チョコレートでコーティングされたふっくらとしたドーナツを取り出してくれる。
「これが最後の一個。ラッキーだね」
手渡されたドーナツは、ほんのりあたたかかった。
紙袋の端から漂う甘い匂いに、さゆりは顔をほころばせる。
「ありがとう、店長さん!」
代金を払って店を飛び出し、また走り出す。
彼が待つ、駅前の小さなベンチへ。
***
そこに彼――遥斗(はると)は、今日も座っていた。
白いシャツ、少しくせのある前髪。
携帯をいじりながら、ぼんやりと空を見上げている。
「はるとー!」
さゆりが呼ぶと、遥斗はふっと笑った。
その手には、やっぱりチョコレートドーナツが一つ、握られていた。
「間に合った?」 「うん! 今日も最後の一個だったよ」
さゆりは、自分のドーナツを掲げて見せる。
それを見て、遥斗も嬉しそうに笑った。
二人で並んでベンチに座ると、それぞれのドーナツにかぶりついた。
パリッと甘いチョコレートの層、その下にあるふんわりした生地。
噛むたびに、懐かしいような優しい甘さが口いっぱいに広がる。
この味は、二人にとって特別なものだった。
***
初めて二人が出会ったのも、あのパン屋だった。
さゆりがチョコレートドーナツを買いに行ったとき、ちょうど手を伸ばした先に、同じものを取ろうとする手があった。
顔を見合わせて、同時に笑った。
「よかったら、半分こしませんか?」
そう遥斗が言って、さゆりはうなずいた。
知らない人と、ひとつのドーナツを分け合うなんて、普通なら考えられない。
けれど、そのときだけは自然だった。
それ以来、週に一度、二人はここでドーナツを一緒に食べるようになった。
仕事の愚痴、趣味の話、夢の話。
会話は尽きることがなかった。
「もしさ、どっちかが忙しくなったら、ドーナツを持ってきた方が、もう一人を待つっていうのはどう?」
ある日、遥斗が言った。
「それ、いいね」
さゆりも笑ってうなずいた。
それが、二人の小さな「約束」だった。
***
「ねえ、遥斗。今度の日曜、時間ある?」
さゆりは、かじりかけたドーナツを両手で包みながら尋ねた。
遥斗は一瞬、携帯をちらりと見て、それからうなずいた。
「うん、あるよ」 「よかった。実はさ……」
言いかけたときだった。
遥斗の携帯が震えた。
画面には『病院』の文字。
「ごめん、ちょっと……!」
彼は慌てて立ち上がり、電話に出た。
さゆりは、かじりかけたドーナツを見つめたまま、遠ざかっていく遥斗を見送った。
彼は、重い病気を抱えていた。
無理に笑っていたけれど、さゆりにはわかっていた。
それでも、彼はここに来てくれる。
チョコレートドーナツを手に。
それだけで、さゆりの心はいっぱいになる。
***
電話を終えて戻ってきた遥斗は、少しだけ顔色が悪かった。
「……ごめん。呼び出しだって」
「そっか」
さゆりは、無理に笑った。
「また、来週ね。必ず」
遥斗はそう言って、さゆりの頭を優しく撫でた。
そして、ベンチの上に自分のドーナツを置いて、去っていった。
さゆりは、二つのドーナツをじっと見つめた。
かじりかけの、自分の。
そして、きれいなままの、遥斗の。
小さな紙袋の中の甘い香りが、夜の冷たい空気の中に溶けていった。
***
次の週。
駅前のベンチに、さゆりは座っていた。
手には、チョコレートドーナツ。
遥斗は、まだ来ない。
でも、さゆりは信じている。
ドーナツを片手に、笑いながら現れる彼の姿を。
それが、二人の――大事な約束だから。