その日、ぼくは完全にまちがえた。
いつもの帰り道、駅前のパン屋で買うはずだったのは、ふわふわのメロンパンだった。
けれど、レジで渡された紙袋の中に入っていたのは、どう見ても固そうな黒いパンだった。
表面はつやつやしていて、まるで夜をぎゅっと固めたみたいだ。
「すみません、これ――」
言いかけて、やめた。
レジの人は忙しそうで、後ろには列ができている。
ぼくは小さく息をついて、そのまま店を出た。
まちがいだ。
でも、まあいいか、とも思った。
人生にはたまに、こういうこともある。
近くの公園のベンチに座って、紙袋を開ける。
黒いパンはほんのり甘い匂いがした。
恐る恐るひとくちかじると――
ぱちん、と音がした。
次の瞬間、景色が少しだけずれた。
いや、ずれたというより、重なった。
目の前の公園に、もうひとつの公園が重なっている。
ブランコの位置が少し違うし、木の葉の色も、ほんの少しだけ深い。
「……え?」
思わず立ち上がる。頭がくらっとした。
もう一口、黒いパンをかじる。
ぱちん。
今度は、はっきりわかった。
世界が少しだけ「違う方」にずれる。
見える景色は似ているのに、どこか優しくて、どこか懐かしい。
ベンチの横には、さっきまでなかった白い封筒が落ちていた。
拾い上げると、そこにはこう書かれている。
「まちがえたあなたへ。これは“寄り道のパン”です」
思わず笑ってしまった。
まちがえたから、ここにある。
封筒の中には、小さな地図が入っていた。
公園の奥に、小さな印がついている。
普段は通らない、細い道の先だ。
ぼくは少し迷ってから、歩き出した。
木の間を抜けると、見たことのない小さな店があった。
看板には、ゆるい文字でこう書かれている。
「よりみち屋」
ドアを開けると、カラン、と音が鳴る。
「いらっしゃい。いいまちがい、しましたね」
店の奥から出てきたのは、やわらかい笑顔の店主だった。
白いエプロンに、小麦粉がついている。
「これ……まちがえて買ったんです」
黒いパンを見せると、店主はうなずいた。
「ええ、それでいいんです。あれは、まちがえた人にしか届かないパンですから」
「そんなこと、あるんですか?」
「ありますよ。正しい道ばかり歩いていると、見えないものもありますからね」
店の中には、不思議なものが並んでいた。
少しだけ形のずれたカップ、途中までしか編まれていないマフラー、行き先の書いていない切符。
「全部、“まちがい”なんですか?」
「ええ。でもね、どれも途中でやめたものや、選ばれなかったもの。でも、それで終わりじゃない」
店主は、棚から小さな瓶を取り出した。
中には、淡い光がゆらゆらと揺れている。
「これは、“やりなおし”じゃなくて、“続き”なんです」
ぼくはしばらく、その光を見つめた。
胸の奥で、何かがほどけていく。
思い出した。
あの日、言えなかった言葉。
選ばなかった道。
やらなかったこと。
どれも「まちがい」だと思っていた。
でも、もしかしたら。
「ここに来た人はね、少しだけ持ち帰れるんです」
「何を?」
「まちがいの続きですよ」
店主は笑った。
帰り道、ぼくのポケットには小さな瓶が入っていた。
さっきの光が、静かに揺れている。
公園に戻ると、もう景色は元に戻っていた。
黒いパンも、いつの間にかなくなっている。
でも、ポケットの中の光だけは、確かに残っていた。
翌日、ぼくは少しだけ違う道を選んだ。
いつもなら避ける、細い路地を通ってみる。
すると、小さな本屋を見つけた。
知らなかった店だ。
入ってみると、ずっと探していた本が棚に並んでいた。
ああ、と思った。
これだ。
まちがいじゃなかったんだ。
ぼくはただ、ひとつの正解しか見ていなかっただけで、本当はもっとたくさんの正解があったのだ。
あの日の黒いパンは、そのことを教えてくれた。
ポケットの中で、光がやさしく揺れる。
まちがいから始まったものは、思っていたよりずっと遠くまで続いていく。
そしてその先に、ちゃんと「大正解」が待っているのだ。


