朝は、まだ世界が半分眠っている時間だった。
カーテンのすき間から、やわらかな光が台所の床に細長く落ちている。
ぼくが目を覚ましたとき、すでに台所から小さな音がしていた。
こねる音。
とん、とん、とん、とん。
のぞいてみると、きみがエプロン姿でボウルを抱えていた。
「おはよう」
ぼくが言うと、きみは振り向いて、粉をつけたほっぺのまま笑った。
「おはよう。パン焼こうと思って」
テーブルの上には小麦粉、バター、牛乳。
そして、まだ丸くまとまっていない生地。
「手伝う?」
そう聞くと、きみは少し考えてから言った。
「じゃあ、こねる係」
ぼくは手を洗って、きみの隣に立つ。
生地はまだやわらかくて、少し冷たい。
「こうやって押して、折って、また押すの」
きみが見本を見せる。
ぼくも真似してみる。
むにゅ。
ぺたん。
「なんか…生き物みたい」
「パンはちょっと生き物だよ」
きみは真顔で言った。
「だって、ふくらむでしょ」
「たしかに」
こねているうちに、生地はだんだんなめらかになっていく。
窓の外では、鳥が一羽だけ鳴いた。
「静かだね」
ぼくが言う。
「いい朝だね」
きみはそう言って、生地を丸くまとめた。
「これから少し寝かせるの」
「パンも寝るの?」
「うん。発酵っていうお昼寝」
ぼくらはボウルにラップをかけて、しばらく待つことにした。
やることがなくなったので、湯気の立つココアをいれてテーブルに座る。
時計の針が、ゆっくり進んでいる。
しばらくして、きみがボウルをのぞく。
「見て」
生地は、さっきよりもふわっと大きくなっていた。
「ほんとだ」
なんだか小さな奇跡みたいだった。
「じゃあ、丸めよう」
生地をいくつかに分けて、ころころ転がす。
少しゆがんだ丸もあるけれど、きみは笑って言う。
「それはそれでいいパン」
天板に並べて、オーブンに入れる。
しばらくして、甘い匂いが台所に広がり始めた。
あたたかい匂い。
朝の匂い。
「パンの匂いって、なんでこんなにいいんだろうね」
きみはオーブンの前で腕を組んでいる。
「世界が少しだけ優しくなる匂い」
ぼくが言うと、きみは笑った。
「それ、パン屋さんのポスターに書けそう」
チン、と音がしてオーブンが止まる。
扉を開けると、まんまるのパンが並んでいた。
きつね色で、少しだけ割れ目がある。
「できた」
きみはうれしそうに言う。
まだ熱いパンをふたつ皿にのせる。
バターを置くと、すぐにとろりと溶けた。
外はさくっとして、中はふわふわ。
「おいしい」
ぼくが言うと、きみは満足そうにうなずいた。
窓の外では、朝がもうすっかり目を覚ましていた。
通りを自転車が走り、遠くで犬が吠えている。
でも台所の中だけは、まだ静かなままだった。
「また焼こうね」
きみが言う。
「うん」
パンを焼く朝は、特別なことが起きるわけじゃない。
ただ、小麦粉と水と、少しの時間。
それだけなのに。
なぜか今日は、
世界がほんの少し、
やさしくふくらんだ気がした。


