部屋の隅に立てかけられた、縁の古い姿見。
その鏡の中には、いつも“もう一人の私”がいる。
朝、寝癖を直そうと鏡の前に立つと、鏡の中の私は、私より少しだけ早く微笑んだ。
「おはよう」
声にはならない声が、唇だけで伝わってくる。
私は思わず小さく会釈した。
鏡の中の私は、私より少しだけ勇敢で、少しだけ素直で、少しだけ涙もろい。
学校で言えなかった言葉も、我慢してしまった気持ちも、鏡の前に戻ると、彼女は先に言ってくれる。
「本当は、悔しかったんでしょう?」
「本当は、あの子に“やめて”って言いたかったんだよね」
私はうなずく。
口に出せない想いを、鏡の中の私は代わりに拾い上げてくれる。
そして必ず最後に言う。
「大丈夫。明日は、今日よりちょっとだけ強くなれるよ」
ある雨の日、私は泣きながら部屋に帰った。
友だちの何気ない一言が胸に刺さって抜けなくて、傘を閉じた瞬間、涙が止まらなくなった。
鏡の前に立つと、鏡の中の私も泣いていた。
だが、涙をぬぐいながら、真っ直ぐに私を見つめた。
「ねえ、知ってる? あなたは弱いんじゃないよ。ちゃんと傷つけるくらい、大切に思っているだけ」
私は鏡に手を伸ばした。
冷たいガラスの向こう側で、彼女も同じ場所に手を当てる。
触れられない距離なのに、不思議と温かさが伝わってくるようだった。
その夜、私は夢を見た。
鏡の向こう側の部屋で、もう一人の私が笑っていた。
「そろそろ、私がいなくても大丈夫だよ」
「え?」と声を出した瞬間、目が覚めた。
翌朝、鏡の前に立ってみる。
そこには、私だけが映っていた。
同じ姿、同じ表情。
でも、どこか違う。
胸の奥に、彼女の言葉が静かに残っている。
私は小さく深呼吸をして、鏡に向かって言った。
「おはよう。今日も、がんばってみるね」
鏡は何も答えなかった。
けれど、その沈黙は不思議と心強かった。
私は鏡から目を離し、ドアノブに手をかける。
――もう一人の自分は、鏡の中にいるんじゃない。
ちゃんと、自分の中にいる。
そう気づいたとき、世界が少しだけ明るくなった気がした。


