秋晴れの朝、海斗は小さな飛行場のゲートをくぐった。
胸の奥が少し震えているのは、冷たい空気のせいだけではない。
今日は人生で初めての遊覧飛行――ずっと憧れていた「空から世界を見る」夢が叶う日だったからだ。
受付を済ませると、パイロットの女性・若葉が笑顔で迎えてくれた。
短く結ばれた髪が風に揺れ、まっすぐに伸びた背中が頼もしい。
「今日は空気が澄んでいます。遠くの岬まで一望できますよ」
その言葉に海斗の緊張は少しほどけ、胸の高鳴りだけが残った。
案内されたのは二人乗りの小型セスナ。
白い機体に描かれた青いラインが、まるで空への道しるべのようだった。
タラップを上がり、シートベルトを締める。
プロペラがゆっくり回転し始めたとき、海斗の鼓動も同じリズムで速くなった。
「じゃあ、行きますよ」
若葉の軽やかな声とともに、機体は少しずつ滑走を始めた。
滑らかな加速ののち、ふわりと地面を離れた瞬間、海斗は思わず息をのんだ。
見慣れた町並みがスッと遠ざかり、視界がぐっと広がっていく。
高度が上がるにつれ、田畑の模様がパッチワークのように整い、川は銀色のリボンのように蛇行していた。
遠くには雪がうっすら積もり始めた山々。
その山をかすめるように雲が流れ、光の帯が大地を照らしている。
「こんな景色、地上では見れませんよね」
「本当に……」
海斗は言葉を探すのをやめた。
ただ、胸の奥から込み上げてくるものをそのまま味わった。
飛行機は高度を保ちながら海へ向かった。
やがて目の前に広がる紺碧の水面。
風が弱く、海は鏡のようになめらかで、その上をグライダーのように滑る機体は、まるで夢の中の乗り物のようだった。
「ほら、見てください。あの白い筋、あれはイルカの群れですよ」
若葉が指さす方を見ると、海面近くにキラキラと光る軌跡が揺れている。
海斗は子どものように身を乗り出した。
「すごい……本当にいるんだ」
「ここはよく現れるんですよ。空からの方が見つけやすいんです」
しばし、海斗は言葉も忘れ、ただイルカたちが作る光の破片を追い続けた。
飛行機はやがて大きく旋回し、岬へとコースを変えた。
崖の上に建つ白い灯台が、海に向かって真っ直ぐ光を伸ばしている。
「灯台って、上から見るとこんな形なんですね」
「かわいいですよね。私も好きなんです」
海斗はふと、隣で操縦桿を握る若葉の横顔を見つめた。彼女の眼差しは真剣で、だがどこか楽しげでもあった。空を相手にしてきた人だけが持つ、凛とした気配をまとっている。
「若葉さんは、どうしてパイロットになったんですか?」
「空が好きだっただけです。地上にいるときの悩みとか、小さく見えるんですよ。空に上がると」
その言葉は、海斗の胸の奥に優しく落ちてきた。
飛行機は帰路につき、徐々に高度を下げ始めた。
海斗は目に映る景色を一つ残らず焼きつけようとするように、窓の外を見続けた。
やがて滑走路が近づき、タイヤが地面に触れる感触が伝わる。
小さな衝撃とともに現実へ戻ったような、少し寂しいような気持ちが胸をよぎった。
タラップを降りると、風が少しだけ冷たくなっていた。
けれど海斗の心は、空の余韻でまだ温かかった。
「どうでしたか?」
「最高でした。……また、乗りたいです」
若葉は微笑んだ。
「いつでもどうぞ。空は逃げませんから」
その言葉に、海斗は力強くうなずいた。
――空は逃げない。
ならば、自分の夢もきっと逃げない。
そう思うと、胸の奥に新しい翼が生えたような気がした。
空を見上げると、夕日に染まった雲がゆっくり流れていた。
海斗は深呼吸をして、静かに心の中でつぶやいた。
「また、空へ行こう」
その決意は、まるで空のように静かで大きなものだった。


