流れの向こうへ

面白い

五月の風がやわらかく頬をなでた。陽射しはやや強く、川面に反射してきらきらと輝いている。
春休みの終わり、拓海は父の古いボートを持ち出して、ひとり川下りをすることにした。

川は小学校の裏山を抜け、田んぼを横切って、町の外れまで続いている。
昔は父とよく漕いだ道だったが、父が亡くなってから、拓海は一度もその川を下っていなかった。
埃をかぶったボートを物置から引っ張り出し、磨きながら、あの頃の笑い声が耳の奥に蘇った。

「流れに任せすぎるな。けど、抗いすぎるのもだめだぞ」
父が笑いながらそう言ったのを覚えている。

川は緩やかに流れ始め、拓海のボートを優しく押し出した。
オールを水に沈めるたび、涼やかな音が響く。
両岸には菜の花が咲き、黄色い帯が続いている。
その香りが風に乗って届くたび、胸が少しだけ温かくなった。

最初の急流にさしかかる。
拓海は深呼吸し、体を前のめりにした。
オールを強く握り、波を切る。
水しぶきが顔にかかる。
子どものころは怖かったこの場所も、今ではむしろ心地よい。
体中の血が騒ぎ、何かが生き返るような感覚。

しばらく進むと、川の流れは穏やかになり、木々の影が水面に映る。
鳥の声が聞こえる。
拓海はオールを休め、ボートを流れに任せた。
空にはゆっくりと雲が流れ、太陽の光が水の上で揺れていた。

ふと、岸辺に見覚えのある岩が見えた。
父とよく釣りをした場所だ。
ボートを近づけてみると、岩の下に古びた缶が置かれていた。
錆びついてはいたが、しっかりと蓋が閉じられている。
何かに導かれるように手に取って開けると、中には小さな紙切れが一枚入っていた。

「川の流れを信じろ。お前の行く道も、きっと見つかる。」

それは、父の字だった。
拓海の胸に熱いものが込み上げ、視界が滲んだ。
たぶん、父は最後の川下りのとき、これを残していったのだろう。
拓海がいつか戻ってくることを、信じて。

ボートを再び流れに乗せながら、拓海は思った。
これまで、自分は父を失った悲しみに囚われて、流れに逆らってばかりだった。
進もうとするたびに、後ろを振り返ってばかりいた。
けれど、今は違う。
川は止まらない。
流れ続けて、遠くへ、広い海へとつながっている。

風が背中を押す。拓海は笑って、オールを強く握った。
「父さん、行ってくるよ。」

川は次第に広がり、見たことのない景色が広がっていく。
遠くに白い橋が見えた。
あの向こうには、町の境を越えた新しい道がある。

波に揺られながら、拓海はもう一度、父の言葉を思い出した。
「流れに任せすぎるな。でも、抗いすぎるな。」

その中間で、バランスを取ること。
自分の力で漕ぎながら、流れの向こうを信じること。
きっとそれが、生きるということなのだろう。

夕暮れが近づき、川面が橙色に染まっていく。
拓海は空を仰いだ。
風の匂いに、父の笑い声が混じっている気がした。

――流れの向こうには、まだ見ぬ明日がある。

拓海のボートは、静かに、そして力強く、川を下り続けた。