十月の終わり、山岳部の友人・健司に誘われて、私は標高二千メートル近くの山小屋に泊まることになった。
紅葉の時期を過ぎ、登山客もほとんどいない。
健司が言うには、古い山小屋を管理している知り合いが改装の手伝いをしてくれる人を探しているのだという。
夕方に登山口を出て、すっかり日が暮れた頃、小屋に着いた。
木の壁は黒ずみ、屋根のトタンが風に鳴っていた。
灯りはかろうじてつくが、奥の部屋の電球はちらちらと明滅している。
「今夜は俺とお前だけだ」
健司が言った。
小屋の管理人はふもとに下りており、明日戻るらしい。
私は冗談めかして、「幽霊でも出そうだな」と言ったが、健司は笑わなかった。
夕食を簡単に済ませ、薪ストーブの前で温まっていると、外からかすかな音がした。
ギイ……ギイ……。
風が戸を揺らしているようにも聞こえるが、どこか人が歩く足音に似ていた。
「風だよな?」と私が尋ねると、健司はうつむいたまま、「ああ」と短く答えた。
夜更け、私は寝袋の中で目を覚ました。
寒さで震えたわけではない。
誰かが廊下を歩く音がしたのだ。
ギシ、ギシ、と床板が鳴る。
健司かと思って声をかけようとしたが、ふと隣を見ると、彼は寝袋の中で静かに寝息を立てていた。
足音は部屋の前で止まり、しばらく動かなかった。
息をひそめて耳を澄ますと、かすかに風が通り抜ける音と、何かが囁くような声が混じっていた。
――かえして。
その声が確かに聞こえた瞬間、全身の毛が逆立った。
私は寝袋から飛び出して廊下に出たが、そこには誰もいない。
ただ、壁の隙間から冷たい風が入り込んでいた。
翌朝、健司に話すと、彼は少し顔をこわばらせた。
「……やっぱり聞こえたか」
彼は言いにくそうに続けた。
「この小屋、十年前に雪崩で埋もれたことがあるんだ。そのとき、登山客が一人行方不明になって、まだ見つかってないって話だ。山の人たちは“風の抜け道”に迷い込んだんだろうって言う」
それでも作業を始めた。
壁板を外し、古い木枠を交換していると、私の手が何か硬いものに触れた。
白く乾いた、小さな骨だった。
健司と顔を見合わせ、息をのんだ。
その下から、古びた布切れが出てきた。
登山用のジャケットの一部らしかった。
その夜。
風は昨日より強く、トタン屋根が不気味に鳴った。
私は眠れずにいた。
そして、また聞こえた。
ギシ……ギシ……。
今度は、はっきりと足音が二人分。
「健司?」
声をかけると、彼の寝袋は空だった。
私は懐中電灯を握りしめ、廊下に出た。
光の先に、健司が立っていた。
彼は壁の前で何かを見つめている。
「どうした?」と聞くと、健司は振り返らずに言った。
「……返さないと」
その声は低く、まるで別人のようだった。
彼の足元には、昼間見つけた骨とジャケットが置かれていた。
私は叫びそうになったが、その瞬間、廊下の奥から白い霧が流れ込んできた。
霧の中に、人の影が見えた。
顔も体もぼやけているが、確かにこちらに手を伸ばしている。
風が渦を巻き、木の壁が軋む。
健司はその影に向かって歩き出し、「すまなかった」と呟いた。
私は慌てて彼の腕を掴んだが、霧がふっと濃くなり、視界が真っ白になった。
気づくと、朝だった。
床には健司の寝袋だけが残っており、彼の姿はなかった。
外に出ると、夜の嵐の痕跡が残っている。
谷の方へ伸びる足跡を追っていくと、雪渓の縁で途切れていた。
――それから一年。
健司はいまだに見つかっていない。
あの山小屋も、春の雪解けで崩れてしまったという。
だが時々、強い風の夜に、私は耳にする。
ギシ……ギシ……と、木の床を歩く音を。
まるで誰かが、まだ「返して」と言いながら、山の中を彷徨っているように。

