風を追い越す瞬間

面白い

照りつける夏の陽射しの下、スタートラインに並んだ瞬間、健太の心臓は高鳴っていた。
自転車レースに出るのは初めてではなかったが、今回は地元で開催される大会。
家族や友人も応援に来ている。いつもより緊張が強く、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。

自転車を始めたのは三年前。健康のためにと軽い気持ちで乗り始めたのがきっかけだった。
ところが、風を切って走る感覚や、坂を登り切ったときの達成感に魅せられ、次第に競技としてのサイクリングにのめり込んでいった。
仕事を終えた夜、街灯の下で黙々と走り、休日は峠道に挑戦した。
汗だくでペダルを踏むたびに、自分が強くなっていくような実感があった。

レースが始まると、選手たちは一斉に走り出す。
序盤は無理をせず、健太は集団の中ほどにつけた。
風の抵抗を抑えるために仲間の背後につきながら、周囲の動きを冷静に見ていた。
呼吸はまだ整っている。
ペダルを回すリズムも安定していた。

しかし、レースの半分を過ぎたあたりから、勝負は一気に加速する。
先頭が仕掛け、集団が縦に伸びる。
健太もついていこうと必死に脚を回したが、心拍数は限界に近づき、太ももが悲鳴を上げ始めた。
――ここで離されれば終わる。
そう分かっていても、体は思うように動かない。

そのとき、沿道から「健太、頑張れ!」と声が飛んできた。
振り返ると、父が帽子を振りながら叫んでいる。
小さな頃、野球でミスをして落ち込んだ自分を励ましてくれた父の声と同じだ。
心の奥に火が灯る。

――諦めるのはまだ早い。

歯を食いしばり、もう一度ペダルを踏み込む。
すると、不思議と脚に少し力が戻ってきた。
風を切る音、チェーンの回転、そして自分の荒い呼吸。
それらが一つに重なり、集中力が研ぎ澄まされていく。
健太は集団から大きく遅れることなく、最後の坂道に差しかかった。

ここが勝負どころだ。ライバルたちも立ち漕ぎで一気に加速する。
苦しさで視界が揺れるが、健太は必死に食らいついた。
頭の中で「ここまでやってきた努力を無駄にするな」という声が響く。
毎朝の早起き、雨の日の練習、何度も味わった筋肉痛。
すべてが今のためにあった。

そして、ゴール手前の直線。
全身の力を絞り出すようにスプリントした。
視界の端に仲間たちの背中が並ぶ。
誰が前に出ているのか、もう分からない。
ただ必死にペダルを踏み続けた。

ゴールラインを通過した瞬間、体から力が抜け、ハンドルにしがみついたまま呼吸を荒げた。
順位は分からなかったが、不思議な充実感が胸を満たしていた。
結果よりも、自分の全てを出し切ったという感覚が強かった。

やがてアナウンスが流れ、健太の名前が呼ばれた。
順位は三位。
表彰台の端ではあったが、初めての大舞台での入賞だった。

メダルを首にかけられたとき、父や母、友人たちの歓声が耳に届く。
少し照れくさいが、嬉しかった。
――あの日、ただの健康目的で始めた自転車が、今では自分を新しい景色に連れてきてくれる。

「次は、もっと上を目指そう」

健太は心の中で静かに誓った。
ペダルを踏めば、どこまでも行ける。
風を追い越す瞬間を、これから何度でも味わってやろうと思った。