山あいの小さな集落に、夏の夜だけ特別な光景が広がる沢があった。
日が沈み、あたりが群青色に染まるころ、沢沿いの草むらからふわりと光が舞い上がる。
ホタルだ。
それも、町ではほとんど見かけなくなったゲンジボタルが群れをなし、まるで星が地上に降りてきたような景色を作り出す。
里奈は、その沢を幼いころから知っていた。
小学生の夏休み、祖父に手を引かれて訪れた夜の記憶は今でも鮮やかだ。
「ホタルはな、きれいな水がなきゃ生きられん。
ここは昔からずっと、変わらず澄んどるんだ」
祖父はそう言いながら、沢の水を手ですくって見せた。
冷たく澄み切った水の中には、小さな川エビや水生昆虫がひっそりと息づいていた。
高校を卒業し、里奈は都会へ出た。
大学、就職と忙しい日々が続き、あの沢を訪れる機会はすっかり減ってしまった。
それでも、夜更けにふと窓の外を見たとき、あの淡い光を思い出して胸が温かくなることがあった。
ある年の初夏、里奈は久しぶりに帰省した。
集落は以前より人が少なくなり、空き家も目立つ。
そんな中で、祖父の家は変わらず沢の近くにあった。
「今年はホタル、どうかな」
夕食後、祖父がそう言うので、二人は懐中電灯を持って沢へ向かった。
しかし、沢に着くと、かつての幻想的な景色はなかった。
水面は濁り、草むらは刈られすぎていて、光るホタルは数匹だけ。
「ここ数年、上流で工事があってな……水が変わっちまった」
祖父はため息をつき、足元の石をひっくり返して小さな虫を探した。
「ホタルは戻らんかもしれん」
その言葉に、里奈は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
それから数日、里奈は祖父と沢に通った。
まだ残っているホタルの幼虫を探し、水辺に影を作るために草を植え直した。
川の流れを少しでも浄化できるよう、石の配置を変え、落ち葉を取り除く。
作業の合間、祖父は昔の話をしてくれた。
戦後の食糧難のころも、この沢の水だけは絶やさず守ってきたこと。
村の子どもたちが夏の夜に競ってホタルを見に来たこと。
「人が守らなきゃ、きれいなもんはすぐなくなるんや」
その言葉は、里奈の心に深く刻まれた。
都会へ戻る日、里奈は祖父に約束した。
「また来るよ。ホタルが戻るまで」
祖父は笑って頷き、沢の水を一口すくって飲んだ。
「冷たいだろう? これを守るんだ」
それからの数年、里奈は仕事の合間を縫って集落へ通った。
地元の人たちとも協力し、沢の上流にあった工事現場に水質保全を求める声を届けた。
外来植物を抜き、ホタルの餌になるカワニナを育てた。
やがて、濁っていた水が少しずつ澄み、草むらに緑が戻り始める。
そして五年後の夏。
夕暮れ、沢に立った里奈の目の前に、淡い光がひとつ、ふわりと浮かび上がった。
それに呼応するように、次々と光が舞い、あっという間に沢全体が輝きで満たされた。
祖父の笑い声が、遠くから聞こえた気がした。
「ほら、戻ってきたじゃろ」
その声に、里奈は静かに頷いた。
胸の奥で、淡い光がじんわり広がるようだった。
里奈は知っている。
この光は、ただの虫の輝きではない。
人の手が守り、心が願い続けた結果、生まれた奇跡だ。
そしてこの沢の水と光は、きっとこれからも誰かの記憶に残り、守られていく——そう信じられた。