池のほとりの約束

面白い

町はずれにひっそりとある小さな釣り堀「山岸つり池」。
主である山岸達夫は、六十を過ぎた初老の男だった。
背は低く、日焼けした肌に深い皺。
いつも麦わら帽子を被り、寡黙だが笑うと少年のような表情を見せた。

もともと達夫は都内でサラリーマンをしていた。
だが五十のとき、突然のリストラ。
長年勤めた会社にあっさりと切られ、心のどこかで何かがぷつんと切れた。
「自分のやりたいことをやるしかねえな」
そう決め、子供の頃に父と通ったこの古びた釣り堀を買い取ったのだ。
荒れ果てていた池を一人で掃除し、古い小屋を改装。
池の中には自分で仕入れた鯉やヘラブナを放ち、看板を手書きで掲げた。

最初の一年はほとんど客も来なかった。
「こんな時代に釣り堀なんて」
誰もがそう言った。
でも達夫は気にしなかった。
朝早くに池の水面が鏡のように静まる時間、竿を持つ瞬間の静けさ。
――それが好きだったのだ。

三年が過ぎたころ、ぽつぽつと常連がつき始めた。
中学生の優斗は、家に居場所がなくて池に通うようになった。
ある日、達夫はふいに訊いた。
「釣れるのが、楽しいのか?」
優斗は釣り糸を見つめたまま言った。
「……何も考えなくていいから」
その言葉に、達夫はうなずいた。

他にも、子連れの母親、退職後の老人、仕事帰りの若者。
人はそれぞれの理由でこの池に来た。
達夫は無口なまま、餌の付け方を教えたり、うまく釣れたときは小さく拍手したりした。

ある春の日。
「ここ、閉めるんですか?」
優斗がそう尋ねた。
「え?」
聞けば、町に大型レジャー施設ができ、釣り堀の土地を売らないかと業者が来たらしい。
達夫は笑った。
「閉めねえよ」
「だって、儲からないでしょ?」
達夫は竿を池に投げ入れ、のんびりと答えた。
「俺はな、釣り堀をやってるんじゃねえ。場所を貸してるだけだ」
「場所?」
「みんな、なんかに疲れたとき、ここに来る。それだけで、いいんだよ」
優斗はしばらく黙っていたが、ふっと笑った。
「……なら、俺も、また来てもいい?」
「当たり前だろ」

達夫は今も、朝一番に池のほとりで釣り糸を垂れる。
風がそよぐたび、水面に小さな波が立つ。
そこには、今日も誰かの「ほっとする場所」がある。

そして、達夫はその静けさの中で、密かにこう思うのだった。
「釣り堀は、釣りをする場所だけじゃねえ。
人が、戻って来れる場所であってほしい」

それが、彼が池と交わした――心の中の約束だった。