幼い頃、奈央は母の読んでくれる絵本が大好きだった。
特にお気に入りだったのは、一冊の外国の絵本。
緑の草原にぽつんと建つ、白い壁と赤い三角屋根の家。
その家には大きな窓があり、光があふれ、煙突からはいつも温かい煙が立ちのぼっていた。
「こんな家に住んでみたいな」
ページをめくるたび、奈央の胸はときめいた。
けれど、実際に彼女が育ったのは、地方都市の片隅にある四角いアパートの一室だった。
窓の外には電線が走り、見えるのは隣の団地の壁。
家の形にこだわる余裕など、家族にはなかった。
大人になった奈央は東京の出版社に勤め、忙しい日々を送っていた。
仕事は好きだったが、どこかいつも落ち着かなかった。
理由は自分でもよくわからなかった。
夜遅く帰る電車の中、ふと頭に浮かぶのは、あの三角屋根の家だった。
「どうして、あんなに惹かれてたんだろう?」
ある日、取材で訪れた長野の山間の町で、彼女はその答えを見つけることになる。
取材の帰り道、地元のカフェでコーヒーを頼み、ふと窓の外に目をやると、視界の先に一軒の家があった。
白い壁に赤茶の三角屋根。
まるで絵本の中から抜け出してきたようなその家に、奈央の心は一瞬で奪われた。
「…ここだ」
誰に言うでもなく、彼女はつぶやいた。
衝動的だった。取材先の知人に頼んでその家のことを調べてもらい、持ち主に連絡を取った。
年配のご夫婦が建てた家で、今は東京に住んでいて、空き家になっているという。
「譲っていただけませんか」
数日後、彼女は電話口でそう告げていた。
思い切った決断だったが、後悔はなかった。
それからの数か月、奈央は週末ごとに長野へ通い、家の修繕を進めた。
壁を塗り直し、窓を磨き、薪ストーブに火を入れた。
都会では味わえない静けさと、木の香り、鳥のさえずり。
気がつけば、心の中の何かが少しずつほどけていった。
春のある日、奈央は仕事を辞め、長野のその家に移り住むことを決めた。
周囲の友人たちは驚き、心配もされたが、「ようやく自分の場所が見つかったの」と、奈央は穏やかに笑った。
山に囲まれたその町では、朝は早く、夜は静かだ。
畑を手伝ったり、近所の子どもたちに本を読んであげたりする生活の中で、奈央はかつて自分が子どもだったころの気持ちを、もう一度思い出していた。
ある晩、薪ストーブの火の前で、奈央は本棚からあの絵本を取り出した。
古くなったページをそっとめくると、懐かしい三角屋根の家が現れた。
「やっと会えたね」
彼女は微笑んだ。
今、その家の窓からは、夕暮れの光が差し込み、暖かい空気が部屋を満たしている。
煙突からは細く煙が上がり、絵本のページと同じような光景が、現実としてそこにある。
絵本の中の夢は、いつか現実になる。
時間がかかっても、道が遠くても、自分を信じて進んでいけば、きっとたどり着ける。
奈央はそう信じていた。
そして今、その家の中で静かに息をしながら、心から思うのだった。
「ここが、私の家だ」と。