辛子の記憶

食べ物

白井芳子(しらい・よしこ)は、幼いころから辛子が好きだった。
黄色くて、鼻に抜けるような刺激のあるあの味が。
小学校の給食で出たシュウマイに、申し訳程度に添えられていた小さな辛子の塊。
友達が残したそれを集めては、一口にまとめて食べていた。
鼻がツーンとして涙が出る。
でも、それがいい。
目の奥まで覚めるようなあの感覚は、芳子にとってひとつの「目覚まし」だった。

高校を出てからも、芳子は辛子を欠かさなかった。
コンビニのおでんには必ず辛子。
ハムサンドに塗るマスタードも、気づけばパンの隙間からこぼれ落ちるほどたっぷり。
友人との外食でさえ、「辛子、ありますか?」と店員に聞いては、困惑されることも多かった。

「辛子で、何がそんなにうまいの?」と、誰かに訊かれたことがある。
芳子は答えられなかった。ただ、好きなのだ。
どこか懐かしく、少し泣きたくなるような味。
気がつけば、辛子は彼女の生活の一部になっていた。

そんな芳子が三十歳になったころ、転機が訪れた。
勤めていた会社が倒産し、急な職探しに追われる日々。
気分転換に立ち寄った商店街の古びた惣菜屋で、小さな貼り紙が目に入った。

「辛子作り 見学歓迎・体験あり」

店の名前は「和香(わこう)」。
昔ながらの製法で、手作りの和辛子を作っているという。
興味半分、衝動半分で足を踏み入れたその店で、芳子は「本物の辛子」と出会った。

香りが立ちのぼる。
今までの市販のチューブとは違う、深く、土の匂いを含んだような香り。
手作業で練り上げられた辛子は、舌の上でピリリと弾けたあと、静かに甘みを残した。

「……なんで甘いんですか?」

思わずそう呟いた芳子に、店主の山路(やまじ)は言った。

「苦味も、辛味も、甘味も、全部本当の味さ。辛子ってのはただの刺激じゃない。人間みたいに、いろんな顔を持ってる。」

その日から、芳子は通い詰めた。
最初は見学だけだったが、やがて手伝いを申し出て、ついには住み込みで修行を始めることになった。
山路は無口な職人気質で、教えるというより「見て覚えろ」という人だったが、不思議と居心地はよかった。

辛子の種を石臼で挽く作業、湯気立つ練りの工程、瓶詰めまでの流れ。
毎日が新鮮で、体はきつかったが心は軽かった。
辛子の香りが染みついた手で顔をこすり、涙がにじんでも、それさえ心地よかった。

ある日、山路がぽつりと漏らした。

「昔、女房と二人でやってたんだ。あいつ、辛子が嫌いでね。文句ばかり言いながら、それでもずっと一緒にやってくれてた。」

その言葉を聞いて、芳子は少しだけ山路の背中が小さく見えた気がした。
人にとって、辛子は好みが分かれる味。
でも、その分だけ、強く記憶に残る。

数年後、山路は店を芳子に譲った。

「辛子を愛してくれる人に、任せた方がいい。」

そう言って、静かに引退した。

今、芳子は「和香」の店主として、毎日辛子を練っている。
若いお客が来て、「からっ!」と顔をしかめて笑うとき、芳子も笑う。

あの日、涙をこらえながら食べた給食の辛子。
あの刺激に、きっと何かを求めていたのだろう。
自分の軸になるもの。
世界の真ん中で、「これだけは譲れない」と言える何か。

芳子にとって、それが辛子だった。

香りは、記憶を呼び覚ます。
そして、刺激は、眠っていた何かを目覚めさせる。
芳子の作る辛子は、今日もまた誰かの心をツンとさせて、そして、あたためている。