焼けたホルモンの向こう側

食べ物

阿部拓真(あべ・たくま)、35歳。独身。

趣味、ホルモンを焼くこと。

焼くというより、「焼き加減を極める」と言ったほうが正しい。
彼は週に四回は必ずホルモン専門の居酒屋へ足を運び、炭火の前で黙々と網の上の小腸やシマチョウ、ミノに向き合っていた。

「ホルモンは人間関係に似てるんだ」

よくわからないことを口にしながら、拓真は一枚のシビレを丁寧に裏返した。
脂がじゅうじゅうと音を立て、火花のように弾ける。
煙が鼻腔をくすぐるたび、彼の顔にはうっすらと笑みが浮かんだ。

職場では寡黙なシステムエンジニア。
人付き合いは苦手だった。会話が続かない。
気の利いたことも言えない。
だけど、ホルモンの前だけでは違った。
箸の動きも、網の火加減も、見事なものだった。
常連客の間では「ホルモンマスター」と呼ばれるほどだ。

ある日、彼がいつもの「焼き台四番」に座ろうとすると、そこに見知らぬ女性がいた。

「あ、すみません。ここって予約席とかでした?」

「いえ……ただの常連なんです。どうぞ、焼きましょうか?」

その女性は少し驚いたような顔をしたが、笑顔で頷いた。

「焼き、お願いできます? 私、ホルモン初めてで」

名前は高橋紗季(さき)、29歳。
出版社の編集者で、最近この町に引っ越してきたばかりだという。

その日、拓真はかつてないほど丁寧に焼いた。
火の通り方、脂の落ち方、食べ頃のタイミング。
すべて完璧だった。

「えっ、これ、めっちゃおいしい……ホルモンって、こんな味だったんだ!」

「焼き加減が大事なんです。強すぎると脂が飛んじゃうし、弱いと臭みが残る」

「まるで人間関係みたいですね」

そう言った紗季の言葉に、拓真ははっとした。
初めて自分の言葉を他人が理解してくれた気がした。

それからというもの、彼らは週に一度、同じ焼き台に並んでホルモンを焼くようになった。
会話はゆっくりだったが、確かなリズムがあった。
網の上のホルモンの焼け具合と共に、二人の距離も少しずつ近づいていった。

ある日、紗季が言った。

「焼くの、私もちょっとやってみたいな」

拓真は驚いた。
自分の“聖域”に誰かを入れるのは初めてだったが、トングを渡した。

「ミノは最初に焼きすぎると固くなるから、片面焼いて、あとは余熱で」

「なるほど。つまり、焦らないことが大事なんですね」

紗季の焼いたミノは、少し焦げていたが、拓真は何も言わなかった。

「……うまいですね」と、嘘ではなくそう言った。

やがて季節は変わり、夏の終わりが近づいたころ。

「実はね、転勤が決まっちゃって……来月には東京に戻るの」

拓真の手が止まった。
脂の落ちる音だけが網の上に響いた。

「……そうですか」

「でも、あなたとホルモン焼く時間、すごく楽しかった。東京にもホルモン、あるかな?」

「ありますよ。でも、焼き加減には気をつけてくださいね」

そう言いながらも、拓真の声は少し震えていた。

別れの日、紗季は最後にホルモンを一緒に焼こうと誘ってきた。
二人はいつもの台で、変わらぬ手順でミノを、ハツを、レバーを焼いた。

「ねえ、拓真さん」

「はい」

「焼けたら、また呼んでください」

「……もちろんです」

その夜、拓真は初めて、自分から誰かに連絡先を聞いた。

それから毎週日曜、彼はホルモンを焼きながら、写真を送った。
網の上の絶妙な焼き具合、滴る脂、火の色。
紗季からは「うまそ〜!」「そのシマチョウ、完璧!」と返信が来た。

そして半年後。

「今夜、東京のホルモン屋で焼くから。来られる?」

拓真は、久々に新幹線に乗った。
重いトングをカバンに忍ばせて。

ホルモンは、人間関係に似ている。

焦ってはいけない。
火加減を見て、相手を思って、時間をかける。
じっくり焼いた分だけ、味わい深くなるのだ。