佐倉陽一(さくらよういち)は、どこにでもいる三十代のサラリーマンだった。
営業の仕事は嫌いではないが、特別好きでもない。
ただ一つ、彼の人生において確かな「情熱」と呼べるものがある。
それが——モッツァレラチーズである。
最初にモッツァレラを食べたのは大学一年の春。
友人に連れられて入ったイタリアンレストランで、カプレーゼを口にした瞬間、世界が変わった。
トマトの酸味とバジルの香り、その間に挟まれた白くて柔らかなチーズが、口の中でとろけた瞬間、陽一の脳内に雷が落ちた。
「これが……チーズ……?」
それからというもの、陽一はモッツァレラを求めてスーパーを巡り、専門店を訪れ、ついには自宅でチーズを手作りするようになった。
休日の朝には、生乳からカードを作り、湯煎して練り、丸める。
できたてのモッツァレラをオリーブオイルで軽く和えて頬張るとき、彼は静かに涙を流す。
「今日も、生きててよかった……」
そんなある日、彼は仕事で取引先のレストランを訪れた。
新しく開店するイタリアンで、広告の打ち合わせが目的だった。
打ち合わせの後、レストランのオーナーがふと聞いた。
「チーズ、お好きですか?」
陽一の目が光った。
「モッツァレラが、好きです」
それをきっかけに、会話がはずんだ。
オーナーの紹介でシェフとも話すようになり、陽一の手作りモッツァレラの話題になると、シェフは興味を示した。
「今度、味見させてくださいよ」
数日後、陽一は自家製モッツァレラを持って店を訪れた。
シェフはそれを一口食べ、目を見開いた。
「……これ、本当にあなたが作ったんですか?」
「はい。休日にだけですが、趣味で……」
「すごいですね。うちの店で出してみませんか?」
その提案に、陽一は思わず耳を疑った。
自分のモッツァレラが、プロの料理人の手で皿に乗る——そんな未来を想像したこともなかった。
もちろん会社には内緒で、副業にはならない範囲での「試み」としてスタートした。
シェフは陽一のチーズに合わせた特別メニューを考案し、「モッツァレラ職人サクラの一品」として小さくメニューに載せた。
口コミで話題となり、やがてその店には「モッツァレラ目当て」の客が増えた。
取材の話も舞い込んだが、陽一は顔出しを断り、あくまで「影のチーズ職人」として活動を続けた。
会社ではいつも通り、変わらぬサラリーマン生活。
しかし、陽一には「もうひとつの自分」がいた。
週末の朝、自宅キッチンで練るチーズ。
店のシェフと味について語り合う時間。
お客が満足そうに頬張る姿——それらが、彼の心を満たしていた。
ある日、シェフが言った。
「もし、店をもう一つ出すなら……一緒にやってくれませんか? 今度は名前も出して」
陽一はしばらく黙ってから、にっこりと笑った。
「考えておきます。でも……それも悪くないですね」
彼の手の中で、白く柔らかなモッツァレラがまた一つ、つややかに丸められていく。
それは、まるで新しい人生の形を練り上げるようだった。