朝の光が差し込む小さなアパートのキッチンで、加奈(かな)は鼻歌を歌いながら包丁を握っていた。
まな板の上には艶やかな緑色、小松菜。
昨日スーパーで買ったばかりの新鮮な一束だ。
「やっぱり、この香り……落ち着くなあ」
小松菜といえば、ほうれん草の陰に隠れがちな地味な葉物野菜。
でも加奈にとっては、子どもの頃からの特別な存在だった。
加奈の母は料理が得意ではなかったが、小松菜だけはよく炒め物や味噌汁に使っていた。
家計が苦しい時期でも、どこかの畑で分けてもらったというその青菜は、加奈の食卓に頻繁に登場した。
「なんでそんなに小松菜ばっかりなの?」と子ども時代の加奈が母に聞いたとき、母はこう言った。
「この子はね、地味だけど体にいいのよ。カルシウムもビタミンもたっぷり。強くなりたいときは、こういうのを食べるのが一番なの」
その言葉が、加奈の心に残っている。
大学に進学して上京し、一人暮らしを始めてからも、小松菜だけは冷蔵庫に常備していた。
炒め物、スムージー、ナムル、パスタ、そして小松菜のおひたし。
とにかく、なんにでも合う。
ある日、加奈は勤め先の同僚たちと「得意料理の持ち寄り会」を開くことになった。
気合を入れて何を作ろうかと考えたが、自然と頭に浮かんだのは小松菜。
「さすがに小松菜の料理だけ持って行ったら、地味すぎるかなあ……」
そう思いながらも、彼女はレパートリーを広げた小松菜メニューの中から、「小松菜と豚ひき肉の甘辛炒め」と「小松菜のジェノベーゼ風ペースト」を選んだ。
後者はバジルの代わりに小松菜を使ったオリジナルレシピ。
これが意外と好評で、職場の上司が真っ先にレシピを聞いてきた。
それをきっかけに、加奈は週末ごとに小松菜を使った料理をSNSにアップし始めた。
地味で飾り気のない投稿だったが、思わぬ反響があった。
「小松菜って、こんなに使い方があるんですね!」
「最近野菜が高いけど、小松菜は手に入りやすくて助かる」
「娘が小松菜嫌いだったけど、これで食べてくれました!」
フォロワーが増え、ある日には小さな地元のフリーペーパーが「小松菜料理の達人」として彼女を紹介した。
そうして彼女の元には、一つの話が舞い込んできた。
それは、地域の野菜直売所と協力して、小松菜レシピのリーフレットを作ってくれないかという依頼だった。
しかも、報酬まで出るという。
「そんな、大したことしてないのに……」
そう言いながらも加奈は、心の中で小さく跳ねた。
自分が好きなもの、自分が信じてきた“地味だけど体にいいもの”が、誰かの役に立つ。それが嬉しかった。
春の終わり、加奈はいつものスーパーではなく、農家直営の朝市に足を運んだ。
青々とした葉を広げた小松菜が並ぶテーブルの向こうには、にこやかな農家のおばあさんがいた。
「これ、娘さんが育ててるのよ。無農薬でね。味が濃くて、炒めても負けないの」
「炒め物、大好きなんです。今日も作ります」
加奈は、袋いっぱいの小松菜を両手に抱えながら歩く帰り道、ふと思った。
母が言っていた「強くなりたいときは、こういうのを食べるのが一番」。
あの言葉は、ただの栄養の話じゃなかったのかもしれない。
日々の暮らしに根を張って、自分の好きなものを信じて食べていく。
その積み重ねが、静かに誰かを強くしてくれる。
加奈はそんなふうに、小松菜と一緒に、自分の人生をじわじわと育てていく。