高瀬結は、古道具屋「風詩(ふうし)」の奥にある小部屋で、砂時計を一つずつ丁寧に並べていた。
店主の娘として生まれた彼女は、小さい頃から砂時計に特別な魅力を感じていた。
それは祖父の影響だった。
祖父はかつて時計職人で、時間という目に見えないものを形にすることに人生をかけていた。
結が五歳のとき、祖父がくれたのは古びた木枠の砂時計だった。
上下を逆さにすると、さらさらと淡い金色の砂が、静かに、そして確かに落ちていく。
「時間は流れるものではなく、積もるものなんだよ」
そう言って祖父は笑った。
その言葉が、結の胸の奥に深く沈んだまま、今でも息をしている。
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結が本格的に砂時計を集め始めたのは大学を卒業してからだった。
進路に迷っていた彼女は、就職もせず、風詩の手伝いをしながら全国の骨董市を巡っていた。
古びた砂時計たちは、どれも異なる物語を秘めているように思えた。
ある日、彼女は東京・神保町の古書市で、奇妙な砂時計を見つけた。
三角形のガラスに閉じ込められた黒い砂。
その落ちる速さは、他のどの砂時計よりも遅く、じっと見つめていると時間の感覚が狂ってしまうような不思議な感覚に陥る。
「それは“記憶の砂時計”って呼ばれているそうです」
店主の老婦人が語った。
「落ちる砂は、持ち主の記憶を吸っていくんだとか。何を信じるかはあなた次第だけれど、手放すときには気をつけなさいね。記憶を返してくれないかもしれないわ」
半信半疑で結はそれを買った。
重く、冷たく、何かを宿しているような不思議な手触りだった。
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それから結の生活に、微妙な変化が起こった。
まず、夢を見なくなった。
次に、昨日食べたものが思い出せなくなり、幼い頃の記憶がぽっかりと抜け落ちていることに気づいた。
そして、気づくと毎晩、その砂時計の前に座っていた。
砂が一粒落ちるたび、何かが彼女の中から削れていくようだった。
「私は、何を忘れてるんだろう……?」
そう呟いたとき、風詩の奥から懐かしい声が聞こえた。
「結。君は、何を“思い出したい”んだい?」
祖父の声だった。
しかし彼はもう何年も前に亡くなっている。
驚いて振り向くと、そこには誰もいなかった。
ただ、棚の奥にしまわれた一番古い砂時計が、淡く光っていた。
金色の砂が落ちるその音が、やけに大きく響いていた。
結はゆっくりと“記憶の砂時計”を手に取り、それを金色の砂時計の隣に置いた。
そしてそっと、逆さにした。
黒い砂が逆流し、わずかにその形を変えながら、やがて静かに止まった。
結はそのとき、ふっと何かが胸の奥でほどけるのを感じた。
忘れていた記憶――祖父の最期の言葉、あの日の夕焼け、風詩の戸の音、砂の音。
それらが一気に戻ってきた。
彼女は笑った。泣きながら、笑った。
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それ以来、結は砂時計を“修理”するようになった。
壊れたガラスを丁寧に磨き、欠けた枠を削り直し、砂の粒を整える。
ときには持ち主の思い出を聞き、ときには沈黙のまま修復する。
砂時計は、ただ時間を計る道具ではない。
結にとってそれは、失った時間を思い出させ、また新しい時間を刻み始める“記憶の器”なのだ。
ある日、一人の少年がやってきた。
母の形見だという砂時計を持って。
砂はすでに半分しか残っていなかった。
「これ、もう直らないかな?」
結はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。砂が半分あれば、もう半分はあなたの記憶で満たせるからね」
そして今日もまた、風詩の奥で、一つの砂時計が時を刻み始めた。