シーチキンの向こう側

食べ物

春野悠太(はるの・ゆうた)は、地味な会社員だ。
毎日、満員電車に揺られ、会議にうなずき、パソコンの前で数字を睨む。
誰にも嫌われず、誰の記憶にも残らないような生活。
しかし、彼にはひとつだけ、人には言えないこだわりがあった。

シーチキンが、好きなのだ。

普通の好き、ではない。
こだわり抜いたシーチキン愛である。
水煮派と油漬け派の論争にも精通し、銘柄の違いはもちろん、国産と輸入品の風味の差も語れる。
彼の冷蔵庫には常に10缶以上のシーチキンがストックされており、日々の食事はほぼシーチキンが中心だ。

「やっぱりね、シーチキンは白米との相性が最高なんだよ」

そう呟きながら、悠太は今日も炊きたてのご飯にシーチキンをのせ、醤油を数滴垂らして口に運ぶ。
ほぐれるようなツナの食感、しっとりとした油のコク、そして白米の甘みが混ざり合うこの瞬間が、彼にとって最高の幸福だった。

だが、そんなある日、彼の「シーチキン・ライフ」に異変が起きる。

会社の近くに、新しい定食屋ができた。
ランチ仲間の同僚に誘われて、断れずに入ったその店で、彼は見慣れぬメニューに目を奪われた。

「ツナとアボカドの香味丼」

シーチキンではなく、「ツナ」と書いてあるが、写真を見る限り、間違いなく缶詰系だ。
悠太は注文してみた。
出てきた丼は、アボカドの緑とツナのピンクが美しく、上には刻み海苔とごまが散らされていた。

ひと口食べて、衝撃が走った。

「……なんだこれは……ツナが、シーチキンが、こんな味になるのか……!」

アボカドのクリーミーさと香味ダレの酸味、そしてシーチキンの旨味が一体となって舌に広がる。
悠太は、初めて「シーチキン以外の世界」に踏み出したような気がした。

それからというもの、彼は定食屋に通い詰めた。
店の名前は「なぎさ食堂」。
店主の女性、三浦さき子は料理上手で、話し上手で、何よりツナ缶料理に並々ならぬ情熱を注いでいた。

「シーチキンって、缶を開けた瞬間に物語が始まると思うんです」

さき子のその言葉に、悠太は雷に打たれたような気がした。
そうだ。
彼もまた、缶を開けるたびに小さな冒険をしていた。

「僕、シーチキンが好きなんです」

気がつけば、悠太はそう打ち明けていた。
初めて誰かに自分の「本当の好き」を話した瞬間だった。

さき子は笑った。

「私もです。だから、こうしてツナ料理を出してるんですよ」

それからふたりは、ツナ缶について語り合った。
銘柄の話、油の違い、レシピ、未来の可能性。
話は尽きなかった。

数ヶ月後。

悠太は会社を辞めていた。
そして、さき子と一緒に「ツナ研究所」という名前のユニットを立ち上げた。
ふたりで全国のツナ缶を集め、試食し、レシピを考案し、SNSで発信するようになった。

「これ、絶対バズりますよ。ツナの冷製パスタに柚子胡椒を加えた新作です」

「うわ、天才じゃないですか。さき子さん!」

やがてテレビでも取り上げられ、彼らのツナレシピは全国に広まった。
冷めたオフィスの片隅で、ひとり缶を開けていた彼の人生は、今や缶の中から広がる無限の世界へと変わっていた。

「シーチキンは、人生を変える食べ物だったんですね」

「ね、言ったでしょ? 缶を開けた瞬間に物語が始まるのよ」

ふたりは今日も、新しい缶を開ける。
そして物語の続きを、静かに、でも確かに紡いでいく。