「それ、カルボナーラじゃないから」
午後八時。常連でにぎわうイタリアンバルで、店主・斉藤剛の声が飛んだ。
店内は一瞬静まり返る。
カウンターの客が一斉に視線を向けた先には、若いカップルが手を止めていた。
男の方が呆然とフォークを握ったまま固まっている。
「そっちはクリームパスタ。カルボナーラには生クリーム、入れないの」
斉藤はキッチンの中から腕を組んで睨むように言った。
彼の目は真剣そのもので、場の空気を読まないことにかけては天才的だった。
「……でも、カルボナーラって、普通は生クリーム……」
「普通じゃない。伝統だ。ローマの魂なんだよ」
斉藤の言葉に、若い男はたじろぎながらも反論を口にしかけたが、隣の彼女がそっと腕を引いた。
「もういいよ、美味しいし」その一言で騒ぎは終息した。
だが、剛の眉間のしわは消えない。
彼がカルボナーラに異常なまでの執着を見せるようになったのは、十五年前のことだった。
当時、剛は三十代前半。
東京の有名レストランで副料理長を務めていた。
野心に満ち、将来は自分の店を持つことを夢見ていた。
そんなある日、偶然にも訪れたローマの下町の食堂で「本物のカルボナーラ」と出会う。
にんにくも生クリームもなし。
パンチェッタの塩気とペコリーノ・ロマーノのコク、黒胡椒の香り、そして卵黄一つの濃厚さ。
それを口にした瞬間、彼の中で何かが弾けた。
「これが……料理か」
その味に心を打たれた彼は、滞在を延長し、その店で皿洗いから修業を始めた。
言葉もろくに通じない異国の地で、彼は皿の割れた数だけ罵倒され、卵の火の入り加減を間違えては睨まれた。
だが、一年後、彼はその店のカルボナーラを完璧に再現できるようになっていた。
「卵黄ひとつ、命ひとつ。雑にすれば料理が死ぬ。丁寧にすれば、生きる」
それが、かのシェフ、ジャンニの口癖だった。
帰国後、剛は店を開いた。
メニューはたったの五品。
その中でも、カルボナーラには「聖域」の札が付いている。
注文するたびに、彼は厨房で静かに祈るような面持ちで卵を割る。
火加減を数秒単位で調整し、チーズをミリグラム単位で削る。
少しでも注文が多いと「今日はカルボナーラ、終了です」と掲げる。
それが噂になり、食通たちが「儀式のカルボナーラ」と呼んで通うようになった。
ある夜、一人の年配の女性がカウンターに座った。
くたびれた服と、少し震える手。
剛はその姿を見て、ふと昔のジャンニを思い出した。
黙ってカルボナーラを一皿、作る。
卵黄を温め、湯気が立ち上る寸前に火から下ろす。
手早くチーズと黒胡椒を絡め、最後にカリカリのパンチェッタ。
皿に乗せ、彼女の前に置いた。
一口、二口。やがて、彼女の目から涙がこぼれた。
「……懐かしい。ジャンニの味」
その言葉に、剛の手が止まった。
「ええ、昔ね。彼と一緒に食堂をやってたの。私はホール係だったけど」
その夜、二人は店が閉まるまで語り合った。
ローマの小さな厨房、卵の火加減で口論になった日々、チーズが足りずに客と一緒に笑った話。
それから、剛のカルボナーラは少しだけ変わった。
卵黄の温度をわずかに上げ、チーズの配分をほんの少し甘くした。
記憶の中の誰かのために。
「命を込めた味は、人の命を救うんだよ」
そう呟きながら、今日も彼は卵を割る。
黄身ひとつ、命ひとつ。
その料理は、ただのパスタではない。
彼の生き様そのものなのだ。