深い山奥に、「囁く森」と呼ばれる場所がある。
正式な名前ではない。
地元の人々がそう呼んでいるだけだ。
そこでは、夜になると森が何かを囁くというのだ。
風の音に紛れて、人の声のようなものが聞こえる。
助けを求める声、泣き声、時には笑い声も。
大学で民俗学を学んでいた佐藤健太は、この森に伝わる奇妙な伝承に興味を持ち、卒業論文の題材に選んだ。
彼は友人のカメラマン、杉山涼と共に一泊二日の調査を試みることにした。
森の入り口には「立入禁止」の古びた看板が立っていた。
誰が設置したのかも不明で、文字はかすれている。
地元の人に話を聞いても、「あそこには近づくな」と口を濁すばかりだった。
「なんかワクワクしてきたな、心霊スポット取材みたいだ」と涼が笑う。
「民俗学的には、口伝の禁忌ってのは重要なんだよ。何かがあるのは確かなんだ」と健太は真面目に返した。
テントを設営し、録音機材とカメラを準備する。
夜になると森の雰囲気は一変した。
風の音、梢のざわめき、虫の声が混ざり合い、耳元で何かが囁いているように感じられる。
深夜、録音機に異常が起きた。
突然、雑音が入り、そしてはっきりと「たすけて……」という女の声が録音されたのだ。
「今の聞いたか? おい、マジで聞こえたぞ」と涼が震えた声で言う。
「再生してみよう」健太は録音を巻き戻し、再生ボタンを押した。
しかし、そこには風の音しか録音されていなかった。
その夜、二人はほとんど眠れなかった。
木々の間から誰かがこちらを見ているような気配、時折背後で聞こえる足音。
何より、互いの耳元で確かに「囁き」が続いていたのだ。
翌朝、涼が姿を消していた。
テントの隣には、泥だらけの裸足の足跡があった。
それはテントをぐるりと回り、森の奥へと続いている。
健太はパニックになりながらも、友人を探して森の中へ踏み込んだ。
数十分歩いた先に、奇妙な祠のようなものがあった。
苔に覆われ、古びた木造の建物。
その前に、涼のカメラだけが落ちていた。
カメラには映像が残っていた。
深夜、自分たちのテントに向かって歩いてくる女が映っていた。
長い黒髪、白いワンピース、顔は影になって見えない。
その女がテントの周囲を歩き、突然レンズの前で立ち止まり、ゆっくりと笑った。
音声には、はっきりとこう入っていた。
「一人にしないで……ね?」
健太はその映像を最後まで見られなかった。
背後から、誰かが自分の名前を囁いた気がしたのだ。
気がつくと、彼もまた、森の中で姿を消した。
数日後、地元の警察によってテントと機材だけが発見された。
健太も涼も、今も行方不明のままだ。
ただ、彼らが録音していたボイスレコーダーだけが無傷で見つかった。
その最終録音には、風と共に、こんな声が残っていた。
「また、来てくれるよね……?」