那覇の国際通りから少し外れた裏路地に、「風の蛇(かぜのじゃ)」という小さな居酒屋がある。
店の棚には、琉球ガラスに詰められた泡盛や古酒がずらりと並ぶ中、ひときわ異彩を放つ一本があった。
瓶の中にとぐろを巻いたハブが眠る――そう、ハブ酒だ。
店の常連に、「ハブじい」と呼ばれる男がいた。
本名は誰も知らない。
年の頃は七十を越えているだろう。
赤銅色に焼けた肌、細い体、そして一度座ると三時間は語り続ける口。
彼は毎晩、カウンターの端でハブ酒をロックで飲む。
それ以外は頼まない。
頑なに、それだけ。
「なぜハブ酒なんですか?」
観光でやってきた若い客が、好奇心で訊ねることがある。
するとハブじいは、決まってこう答える。
「これは命の酒さ。怒りも、悔いも、女も、全部飲み込んでくれる」
その言葉に、誰もが少し黙り込む。
けれど、それ以上のことは語られない。
ある夜のこと。
常連客が一人、ぽつりと漏らした。
「ハブじいにも昔は嫁さんがいたんだとよ。戦後の混乱の中で出会って、若い頃は演奏旅行までしてたんだって」
「え、ミュージシャンだったの?」
「そうさ。三線ひいて歌って、沖縄民謡で全国回ったってさ」
それを聞いていた店主のミサキは、ふと棚の奥からホコリをかぶった古いレコードを取り出してきた。
ラベルには「与那覇タケルと風蛇楽団」とある。
そして写真の隅には、若かりし頃のハブじいの姿。
「これ……じいちゃんじゃん!」
ざわつく店内に、本人は何も言わず、ただ黙って酒をすすっていた。
けれどその夜、ハブじいは珍しく、三線を手にした。
誰が差し出したのかも覚えていない。
彼は立ち上がり、ゆっくりと調弦を始めた。
「じゃあ、久しぶりに唄ってみっかね」
店内が静まり返る。
音が鳴る。
弦のひと撥ね。
声が重なる。
♪ 月の光 海に踊りて
忘れじの人よ 今いずこ ♪
かすれた声。
だが、その唄には何かがあった。
聴く者の胸に、潮風のような寂しさとあたたかさが流れ込んでくる。
唄い終えたあと、ハブじいはグラスを持ち上げた。
「若い頃、あの人と二人で全国回った。けれど東京で、急に病気で……帰らんくなったさ。そんときに最後に飲んだのが、これだった」
そう言って、ハブ酒を口に運ぶ。
「これを飲むと、あの人の唄声が戻ってくる気がするんだよ」
その夜から、「風の蛇」では時折、ハブじいが三線を弾くようになった。
観光客も、地元の若者も、皆彼の唄を聴くようになった。
ある春の日、ハブじいは店に現れなかった。
次の日も、その次の日も。
一週間が経った頃、役所からミサキの元に電話が入った。
身寄りがなかったため、店を緊急連絡先にしていたという。
ハブじいの遺品は小さな風呂敷包み一つと、半分ほど残ったハブ酒の瓶だけだった。
ミサキはその酒を、棚の一番奥にそっとしまった。
そしてある夜、店の灯りが静かに揺れる中、誰かがそっと三線を奏でた。
そして、誰かが唄い出した。
♪ 月の光 海に踊りて
忘れじの人よ 今いずこ ♪
その唄の中で、確かに彼はまだそこにいた。
瓶の中でとぐろを巻いたハブが、どこか誇らしげに笑っていた気がした。