透明な素肌の約束

面白い

里香(りか)は、都心の広告代理店で働く三十二歳の女性だった。
華やかな世界に身を置きながらも、彼女の鞄の中には、どこか素朴な、ラベルの小さなガラス瓶がいくつも入っていた。
そこには「無添加石けん」「ホホバオイル」「化学成分不使用」の文字が並ぶ。

きっかけは、十年前のある春の日だった。
新人研修の最中、重たいメイクに肌が負けて、顔中に赤みと湿疹が広がった。
それまで問題なく使っていた化粧品が突然、毒のように彼女を苦しめた。

「あなた、肌が弱いのね。もっといいブランドを紹介してあげる」

上司の親切心から高価な海外製品を渡されたが、結果は同じだった。
皮膚科にも通った。薬も塗った。
けれど、肌はどんどん薄くなり、鏡を見るのも嫌になる日が続いた。

そんなとき、偶然立ち寄った小さな自然派ショップで、年配の女性が語りかけてきた。

「本当に必要なのは、少しの油と、きれいな水だけよ。肌には、自分を守る力があるの」

その日から、里香はすべてを変えた。
クレンジングも、化粧水も、メイク道具さえも。
「無添加」という言葉に敏感になり、成分表を読むのが習慣になった。
最初は、同僚から奇異の目で見られた。
薄いメイクでは撮影にも映えないと言われた。
けれど、肌は確かに変わった。
三か月、半年、一年と経つうちに、湿疹は消え、頬にほんのりと赤みが戻った。

その後も仕事は忙しく、業界の最前線でプレゼンを重ねたが、里香の鞄からは市販のブランド品が消えていた。
かわりに、手作りのローションや、小さな農園で採れたラベンダーオイルの瓶が増えていった。

ある日、里香は新人の教育係を任された。
配属されたのは、二十三歳の麻衣。
雑誌に出てくるような完璧なメイクで現れた彼女は、明るく、そしてどこか無理をしているようだった。

「朝、二時間かけてるんですよ。肌に悪いのはわかってるけど、仕事だから……」

里香は何も言わなかった。
ただ、自分の経験を押しつけることはしたくなかった。

だが数週間後、麻衣が突然、涙を浮かべて更衣室に駆け込んできた。
顔には赤い発疹。
あの日の自分がフラッシュバックする。

「……どうしたらいいかわからなくて」

里香は、黙ってポーチから一本のオイルを取り出した。

「ホホバオイル。化粧落としにも、保湿にもなる。すぐに効くわけじゃない。でも、肌を信じてあげるの」

麻衣は黙ってそれを受け取った。

それから半年、麻衣の肌も少しずつ変わっていった。
赤みは薄れ、笑顔が自然になり、メイクも軽くなった。
そしてある日、ふいにこう言った。

「私、この肌で、仕事も恋も、勝負してみたいって思うようになりました」

その言葉に、里香は小さくうなずいた。

「それが、いちばん強いって、私も思う」

自然の力を信じるということは、すぐに結果が出ないことを受け入れることだ。
効率や即効性に慣れた現代で、それは非合理に見えるかもしれない。
それでも、里香は肌と向き合い、自分と向き合い続けることを選んだ。

鏡に映る自分は、完璧ではない。
けれど、その素肌には嘘がなかった。
だから今日も、彼女は静かに瓶の蓋を開ける。

香るのは、自然そのままのラベンダー。
肌が喜ぶ音は、心の奥にも響いていく。