北海道の東の小さな町、厚真。
春の終わりに雪が溶けると、町の空気は少しだけ甘くなる。
地元の人々にしか分からない匂い――それは、山に自生するハスカップの芽吹きだった。
中原沙織は、十年ぶりにこの町へ戻ってきた。
母が亡くなって、実家をどうするか話し合うためだった。
東京での仕事も一区切りついたタイミングだったが、それでもこの町へ帰る決心には時間がかかった。
「ただいま」
玄関の引き戸を開けると、もう誰もいない家が、思いのほか温かく感じられた。
母が最後まで守ったこの家は、木の香りがまだ残っていた。
ふと台所の棚を開けると、小瓶がいくつも並んでいた。
紫がかった深い青――ハスカップのジャムだ。
毎年、母は庭の奥の藪からハスカップを摘んで、自家製ジャムにしていた。
あの甘酸っぱくて、ちょっと渋みのある味は、沙織の記憶の奥深くに今でも残っていた。
「また作ってたんだね……」
指にすくって舐めてみると、少しだけ涙が出た。
子どもの頃、風邪をひいたとき、母はいつもトーストにハスカップジャムを塗ってくれた。
何かを癒すような味だった。
その晩、沙織は母の日記を見つけた。
そこには、毎年の収穫の記録と、彼女へのメッセージが綴られていた。
「沙織が帰ってくる日を夢見て、今年もジャムを煮た。あの子は都会で頑張ってるけど、この味を覚えていてくれたら、それでいい。」
ページの端には、小さなメモが挟まっていた。
「来年の苗を増やしておくこと。沙織に伝える。」
翌朝、沙織は庭に出た。母が大事にしていたハスカップの木が、まだしっかりと根を張っていた。
数本は剪定され、わらの布が丁寧に巻かれていた。
母が亡くなる直前まで、世話をしていた証だった。
その日から、沙織は毎朝、庭に出るようになった。
町の人たちも気にかけてくれて、育て方を教えてくれた。
ある老人はこう言った。
「ハスカップはな、ちょっと手がかかるけど、人に似とるんだ。手間かけた分、応えてくれるよ。」
六月の終わり、小さな実が成り始めた。
昔よりも甘く感じたのは、きっと自分の手で摘んだからだろう。
沙織は母と同じように、ジャムを煮た。
部屋中に広がる香りの中で、母の背中がすぐそばにある気がした。
「帰ってきてよかった」
そう呟いたとき、涙ではなく、笑顔がこぼれた。
そして秋、沙織は決めた。
この家を拠点に、ハスカップを育てて、販売する小さな店を始めることにした。
名前は「Haskap Note」。
母と交わした言葉、そして町とつながる記憶を残すための場所だ。
都会でのスピードに流されていた日々の中で忘れかけていたもの――それは、甘酸っぱくてちょっと渋い人生の味だった。