駅前から続く小さな商店街の外れに、「ビスケット日和」という店がある。
木造の可愛らしい建物で、看板には手描きのビスケットと、ふわりとした筆致で店名が書かれていた。
昼間は人通りが少ないが、不思議なことに夜になると、ぽつりぽつりと客が訪れる。
店主の名前は椿(つばき)さん。
年齢も出身も、誰も知らない。
ふんわりとした黒髪を後ろで束ね、いつもエプロン姿で、まるで童話から抜け出してきたような雰囲気だ。
「うちは、普通のビスケットじゃありませんよ」
初めて来た客には、必ずそう言う。
そして、奥の棚から小さな缶を取り出す。
たとえば「懐かしい教室の味」と書かれた缶の中には、チョコチップとミルクのビスケット。
食べた瞬間、ある女性は涙を流した。
彼女は数十年前に亡くした親友との思い出を語り、「あの子が作ってくれた味と同じ」とつぶやいた。
またある晩、「勇気のビスケット」を買った青年は、翌日会社に辞表を出し、自分の夢だった小さなパン屋を開いた。
後日、「あの味をもう一度食べたい」と、満面の笑みで再訪した。
椿さんのビスケットには、不思議な魔法がかかっている。
人の心の奥にある記憶や想い、願いが香りとして立ち上り、味に溶け込むという噂がある。
だが、その魔法は誰にでも通じるわけではない。
「本当に欲している人だけに、ちゃんと届くんです」
ある晩、椿さんはそう語った。
深夜0時過ぎ、ひとりの少女が店に入ってきた。
ランドセルを背負ったまま、目に涙を浮かべている。
「家に帰りたくないの」
ぽつりと少女は言った。
両親の離婚、学校での孤立。
誰にも本音を話せず、ふらふらとこの店にたどり着いたのだという。
椿さんは黙って、小さな丸いビスケットをひとつ、銀の皿に乗せて差し出した。
「これは“灯りのビスケット”。真っ暗な心に、小さな光をともします」
少女は戸惑いながらも口にした。
バターの香ばしさ、ほのかなオレンジピールの苦味。
そして、じんわりと胸の奥が温かくなるような感覚。
少女は何も言わなかった。
ただ、泣きながら食べ終えた。
その夜、少女は家に帰った。
翌朝から学校にも通い続け、やがて少しずつ笑うようになった。
椿さんの店には、それから毎週末、彼女の姿があった。
時折、店の中から聞こえる笑い声や、椿さんと客の静かな会話が、商店街の闇にふわりと浮かぶ。
まるで、ビスケットの香りのように。
そして、ある日を境に、椿さんの姿は消えた。
突然のことだった。
店は閉じられたまま、誰も中に入れない。
ただ、扉にかけられた小さな札には、こう書かれていた。
「必要なときに、また会いましょう」
あの夜訪れた少女は、今では大人になり、児童心理カウンセラーとして働いている。
そして毎朝、通勤前に一枚のビスケットを焼く。
レシピは、覚えていないはずのはずなのに、自然と手が動くのだという。
それは、あの灯りのビスケットの味に、とてもよく似ているらしい。