小さなアパートの台所に、今日も香ばしい匂いが立ち込めている。
フライパンに落とされたにんにくとごま油がじゅうじゅうと音を立て、続いて炒められる豚肉と玉ねぎが甘い香りを加える。
その中心に、赤く光るペーストが溶けていく。
――コチュジャン。
田中理沙(たなか・りさ)、28歳。
会社員。
趣味は料理、特に韓国料理。
冷蔵庫には常に3種類のコチュジャンが並んでいる。
辛さ控えめのもの、甘みが強いもの、そして本場韓国の市場で買った激辛タイプ。
「やっぱり、今日は豚キムチ丼でしょ」
理沙は独り言を言いながら、フライパンの具材を丼によそう。
その上に温泉卵を落とし、ごまをふりかける。
仕上げにほんのひとたらし、コチュジャン。
これが欠かせない。
ピリッとした辛さと深いコクが全体をまとめてくれるのだ。
彼女のコチュジャン好きには、理由がある。
大学時代、理沙は交換留学で1年間、韓国・ソウルに住んでいた。
当時、言葉もろくに話せず、友達もおらず、ホームステイ先で涙を流す日々。
そんなある日、ホストマザーのミナさんが作ってくれたのが、スンドゥブチゲだった。
「コチュジャン、入れると美味しくなるよ」
ミナさんはそう言いながら、スプーンで赤いペーストをチゲに落とした。
その香りが、理沙の心に火を灯した。
初めて「韓国の味」が美味しいと感じた瞬間だった。
以来、理沙にとってコチュジャンは「ただの調味料」ではなく、「安心」と「温かさ」の象徴になった。
***
月曜日の昼休み、同僚の斉藤がふと聞いた。
「田中さん、最近お弁当いつも韓国風だよね。辛くないの?」
理沙は笑った。
「ちょっと辛いけど、これがないと元気でないんです。コチュジャンって、元気の素なんですよ」
「へえ……そんなに好きなんだ?」
「ええ、たぶん、恋人より好きかも」
冗談交じりに言ったが、その晩、帰り道でふと考えた。
――私、本当に恋人いないままでいいのかな。
***
ある日、会社の飲み会の二次会で、斉藤が隣に座った。
「田中さん、今度さ、俺にも教えてよ。韓国料理」
「え?料理、するんですか?」
「最近、ちょっと興味あるんだ。特に……あの赤いやつ?」
「コチュジャン?」
「そう、それ」
理沙は笑って言った。
「じゃあ、今度うち来ます?コチュジャンパーティーしましょうか」
思わず言った一言だったが、斉藤は少し顔を赤らめながら、うなずいた。
***
日曜日の午後、理沙のアパートには、いつもと違う空気が漂っていた。
台所で理沙が手際よくチヂミを焼く横で、斉藤がキムチを刻んでいる。
「これ、なかなか難しいな……」
「最初はみんなそう。でも、手作りのキムチは美味しいですよ。で、こっちがコチュジャン三兄弟です」
理沙が冷蔵庫から3種類のコチュジャンを並べると、斉藤が驚いたように目を見開いた。
「うわ、こんなにあるんだ。どれが一番おすすめ?」
「それは……あなたの好みによります」
理沙は真面目な顔でそう言って、ふっと笑った。
夜になって食事がひと段落すると、斉藤がぽつりと呟いた。
「田中さんって、コチュジャンみたいな人ですね」
「え、それどういう意味ですか?」
「最初はちょっと刺激的で、慣れないと辛いけど……噛みしめると、クセになる味って感じ」
理沙は顔を赤らめ、言葉を失った。
コチュジャンがくれたのは、味だけじゃなかった。
異国の地で出会った優しさ、食を通じて育まれた思い出、そして――誰かとの、新しい始まり。
コチュジャンの赤は、情熱の色。
そして今、彼女の頬を染める恋の色でもあった。