古谷慎一(ふるやしんいち)は、平凡な町工場で働く四十代の男だ。
小柄で無口、昼休みも黙々と弁当をつつくだけの男に、周囲は特別な関心を持っていなかった。
しかし、彼にはひとつだけ、異様な情熱を注いでいる趣味があった――高圧洗浄機である。
きっかけは数年前、実家の外壁を掃除しようとしてホームセンターで何気なく購入した一台の家庭用高圧洗浄機だった。
最初はただの便利な清掃道具として使っていたが、水流がコケを一瞬で吹き飛ばし、コンクリの隙間に埋もれた汚れまでも洗い流す快感に、慎一は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「これは……芸術だ」
それ以来、彼の生活は一変した。
休日には必ず高圧洗浄機を持ち出し、自宅のベランダや庭の石畳、さらには近所の公園のベンチまでも黙って磨き上げた。
見違えるようにきれいになった公園に子どもたちが戻ってくると、慎一はその様子を物陰から満足げに見つめた。
次第に、高圧洗浄の対象は拡大していった。
古びた看板、錆びた自転車のフレーム、排水溝の蓋。
彼は黙々と街の「汚れ」に取りつかれたかのように洗浄して回った。
しかしある日、近所の住民から市に通報されてしまう。
「夜な夜な謎の男が水を撒いている」「不法侵入ではないか」。
役所から警告が来て、慎一はしばらく活動を控えることにした。
失意の中、彼は動画投稿サイトに辿り着いた。
そこには、世界中の「高圧洗浄マニア」が、汚れた石段を新品同様に変える過程を投稿していた。「#PressureWashingSatisfying」というタグのついたそれらの動画は、驚くほど再生されていた。
「これだ……俺も、見せてやる」
翌日から、慎一はカメラを三脚に据え、自宅の古いウッドデッキを撮影しながら洗浄を始めた。
動画には字幕も音楽も入れず、ただ“ブシューッ”という水圧の音と、徐々に輝きを取り戻す木材の様子だけが淡々と映っていた。
投稿から一週間、再生数は三桁だった。
だがコメントが一つ、英語でついた。「This is the most satisfying thing I’ve seen today.」
それが始まりだった。
次第に慎一の動画には視聴者が増え、コメントは世界中から寄せられた。
「あなたの動画で不眠症が治った」「この音が心地いい」「日本の高圧洗浄師、もっと見せてくれ」
気づけばチャンネル登録者は十万人を超え、動画投稿が慎一の新たな生きがいになっていた。
海外からの依頼で、汚れた噴水の洗浄動画を撮るために渡航する話まで舞い込んできた。
そして、ある日。
慎一はかつて通報されたあの公園に、正式な許可を得て戻ってきた。
今度は自治体公認で、公園の石畳を洗浄するイベントが開催されたのだ。
子どもたちが「水のおじさん、がんばれー!」と声援を送り、慎一はヘルメットをかぶりながら静かに微笑んだ。
ブシューッ。
水圧の音が響く。
汚れが剥がれ、地面がかつての輝きを取り戻していく。
その様子を、慎一は目を細めて見つめた。
「ただ、きれいにしたかっただけなんだよ」
彼の声は小さく、それでいて確かに届いていた。
水の魔術師――人は彼をそう呼ぶようになった。