山あいの小さな町に住む陽太(ようた)は、毎年春になると心がそわそわした。
まだ雪の残る山肌に芽吹く若草の匂い、川のせせらぎ、そして何より、焚き火のはぜる音が恋しくなる。
彼にとってキャンプは、ただの趣味ではなかった。
日々の忙しさや人間関係のもつれから、静かに心を解き放つための、大切な儀式のようなものだった。
ある金曜の午後、陽太は仕事を定時で切り上げると、軽トラックに愛用のテントと焚き火台、スキレットなどを積み込んで出発した。
目指すは、町から少し離れた秘密のキャンプ地。
川沿いの林の奥にあるそこは、観光客も来ない知る人ぞ知る場所で、彼のお気に入りだった。
現地に着くと、陽太は黙々と設営を始めた。
テントを張り、薪を割り、火を起こす。
何も考えずに手を動かすことで、自然と心が整っていくのを感じる。
日が暮れる頃には、焚き火の赤い光が辺りを照らし、肉と野菜の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
ふと、焚き火の向こうに人影が現れた。
「こんばんは」
若い女性の声だった。
驚いた陽太が顔を上げると、そこにはリュックを背負った見知らぬ女性が立っていた。
髪は風になびき、少し汗ばんだ額に陽の名残が滲んでいる。
「すみません、近くで道に迷ってしまって……。ここ、ちょっとだけ休ませてもらってもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ。火にあたってください」
女性は「助かります」と言いながら、焚き火の近くに腰を下ろした。
「あなた、ここよく来るんですか?」
「ええ、まあ……静かで好きなんです。キャンプ、よくするんですか?」
「いえ、今日が初めてなんです。思い切って一人で来てみたけど……思ったより自然って怖いんですね」
彼女の名は沙耶(さや)といった。
都会で働くOLで、日々の喧騒に疲れてふと「自然に癒されたい」と思い立ったという。
しかし道に迷い、スマホも圏外になり、不安でいっぱいになっていたところに、この焚き火の光を見つけたのだという。
陽太は彼女に食事を分けながら、火の扱い方や焚き火の組み方、テントの張り方などを簡単に教えた。
沙耶は興味津々で聞き入り、時折笑顔を見せた。
その夜、満天の星の下で二人は並んで座り、言葉少なに火を見つめていた。
風が木々を揺らし、パチパチと薪が弾ける音が、何よりも雄弁だった。
「また、キャンプしてみたくなりました」
沙耶がぽつりと呟いた。
「そのときは、またここに来ればいい。俺、たぶんまた焚き火してるから」
彼女は小さく笑った。
次の朝、沙耶は陽太に礼を言って山を下りた。
連絡先も聞かず、ただ「また、どこかで」と手を振って去っていった。
それから一ヶ月後。
再びキャンプに訪れた陽太は、焚き火の準備を終えて川の音に耳を澄ませていた。
ふいに、あの日と同じように足音がした。
「こんにちは。また、迷っちゃいました」
振り返ると、そこには笑顔の沙耶が立っていた。
今回はしっかりとした装備で。
陽太は微笑んだ。
「ようこそ、“俺の秘密基地”へ」