藤堂遥(とうどうはるか)は、フランスパンが好きだった。
ただの「好き」ではない。
恋に近い執着が、あの香ばしく焼かれたパンに向かっていた。
遥が住む街には、小さなパン屋「ル・ミエル」がある。
築六十年は経っていそうな古い洋館の一角、朝になるとバターと小麦の匂いを漂わせて、道行く人たちをふわりと立ち止まらせた。
中でも遥のお目当ては、店主のジャンさんが焼くフランスパンだった。
パリッとした皮、噛めばじんわりと広がる麦の甘み。
持ち帰るとき、紙袋の中からかすかに鳴る「カリッ」という音までが愛おしかった。
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遥は、毎週土曜の朝に「ル・ミエル」へ通った。
まだ日が昇りきらないうちに。
店に着くと、ちょうど焼き上がったばかりのフランスパンがカウンターに並び始める頃だ。
温かい空気に包まれた店内で、遥は目を細めながらパンを選ぶ。
「今日もフランスパンだね」
ジャンさんは笑う。
フランス訛りのある日本語が、またいい。
「はい。これがないと、一週間が始まらないんです」
遥が言うと、ジャンさんはからかうようにウィンクした。
ある日、ジャンさんがふと、話しかけた。
「どうしてそんなに、フランスパンが好きなの?」
遥は一瞬、答えに迷った。
理由なんて考えたことがなかった。
ただ、そういうものだと――心が自然に決めたのだと思っていた。
それでも少し考えてから、遥は話し出した。
「子どもの頃、家族で初めて行った旅行先がパリだったんです。
朝、まだ眠たかった私の手に、母がフランスパンを持たせてくれて。
そのときの味が、たぶん、心の奥に残ってるんだと思います」
ジャンさんは、黙って聞いていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「なるほどね。
パンはね、ただ食べるものじゃない。思い出を包み込むものだよ」
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それからも、遥は変わらずフランスパンを買い続けた。
忙しい日も、疲れた日も、パンをかじるときだけは心がほぐれた。
だが、ある冬の日、「ル・ミエル」が閉店するという貼り紙が出た。
店主のジャンさんが故郷に帰ることになったらしい。
遥は呆然と立ち尽くした。
最後の営業日、遥は早起きして店を訪れた。
すると、ジャンさんがカウンター越しに、笑顔で袋を差し出してきた。
「これ、君に」
中をのぞくと、一本のフランスパン。
そして、小さな手紙が添えられていた。
『いつか君も、自分だけのパンを焼いてごらん。小麦と水と塩だけで、君の思い出を形にするんだ。』
遥は、涙ぐみながらパンを受け取った。
かじった瞬間、カリッとした音とともに、あの日の朝のパリの空気がよみがえった気がした。
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それから数年後。
遥は小さなパン屋を開いた。
名前は「Souvenir(スヴニール)」。
フランス語で「思い出」という意味だ。
並ぶパンの中で、ひときわ人気なのは――もちろん、あのフランスパンだ。
かじるときの「カリッ」という音を、遥は今でも、世界でいちばん美しい音だと思っている。