春の終わり、町のはずれにある小さな川沿いの家に、古びた鯉のぼりがあった。
布は少しくすみ、尾びれには何ヶ所かほつれも見える。
けれど、晴れた日には、赤、青、黒、色とりどりの鯉たちが、風に乗って空を泳いだ。
その家には、幼い頃から病弱だった少年・海翔(かいと)が住んでいた。
外で元気に走り回ることはできなかったけれど、彼はいつも家の縁側に座って、空を見上げるのが好きだった。
空には、父が毎年掲げてくれる鯉のぼりたち。
小さな海翔の目には、それが本当に生きているように見えた。
「お父さん、あの鯉たちはどこに行くの?」
ある年のこどもの日、海翔が尋ねた。
父は少し笑って、そっと海翔の頭を撫でた。
「うん、高い高い山を越えて、もっともっと大きな空を泳ぎに行くんだ。強い風に負けないように、毎日泳ぐ練習をしてるんだよ。」
その言葉を聞いてから、海翔は毎日、鯉のぼりを応援するようになった。
雨の日も、風のない日も、縁側に座って、小さな声で歌ったり、話しかけたりした。
「がんばれ、がんばれ。あの山を越えて、大きな空に行くんだ!」
そんな日々が続いたある春、町に大きな嵐がやってきた。
夜の間中、風は家を揺らし、雨は川の水を濁らせた。
朝になっても、嵐は少しも弱まらなかった。
海翔が心配そうに窓から外を覗くと、一本の鯉のぼりが風に引きちぎられ、遠くへ飛ばされていくのが見えた。
「お父さん!」
海翔が叫ぶと、父も外に飛び出していった。
二人で懸命に探したが、飛ばされた鯉のぼりは、とうとう見つからなかった。
それは、一番古くて、一番大きな黒い鯉だった。
祖父の代から受け継がれてきた、家族にとって大切な鯉のぼりだった。
海翔は泣いた。
あの鯉は、彼の友だちだった。
ずっと一緒に空を見上げ、励まし合ってきた相棒だった。
「……きっと、大きな空に行ったんだよ。」
ぽつりと、父が言った。
「ほら、海翔がいつも応援してくれたからさ。あの黒鯉は、強い風に乗って、山を越えて行ったんだ。」
海翔は涙を拭いて、空を見上げた。
雲の切れ間から、うっすらと青い空が覗いていた。
あれから季節は巡った。
海翔は少しずつ体も強くなり、短い時間なら外に出られるようになった。
翌年のこどもの日。
新しい黒鯉を掲げる代わりに、父は一本だけ、白い鯉のぼりを手作りした。
それは、飛んで行った黒鯉への贈り物だった。
「この白鯉は、旅立ったあの子に届けよう。どこにいても、ちゃんと君を覚えてるって。」
そう言って、海翔と父は一緒に鯉のぼりを空へあげた。
風が白鯉をふわりと持ち上げる。
まるで、あの黒鯉と再会して、仲良く並んで泳いでいるかのようだった。
海翔は大きく手を振った。
そして、心の中で叫んだ。
「がんばれ、がんばれ!またどこかで会おうね!」
青く広がる空の下、鯉たちは自由に泳いでいた。
山を越え、川を越え、きっと、どこまでも──。