メンチカツの味

食べ物

東京の下町、荒川区の一角に、昭和から続く小さな肉屋「肉のさいとう」があった。
商店街の外れにあるその店は、外から見ればどこにでもある古びた店構え。
しかし昼どきともなれば、店の前には長い行列ができる。
その理由は、看板メニューの「メンチカツ」だった。

ざくっと噛めば衣はサクサク、中から肉汁がじゅわっと溢れ出す。
粗びきの合い挽き肉に玉ねぎの甘み、ほんの少しのナツメグ。
どこか懐かしくて、ほっとする味。
その味に魅せられた人々が、毎日列を作る。

その中に、毎週水曜日の昼に必ずやってくる若者がいた。
名前は佐々木陽介、28歳。
近くの中小企業で働く営業マンだ。
スーツにネクタイ、黒縁メガネといった地味な格好で、商店街を通る姿は特に目立たない。
でも「肉のさいとう」の女将、斎藤春子には、陽介が特別な客に思えた。

「あら、佐々木さん、今週もありがとうね」 「こんにちは。メンチカツ、2つお願いします」

毎週変わらぬやりとり。
だが春子には気づいていた。
陽介が初めて店に来たのは、ちょうど一年前の春。
どこか疲れ切った顔で、ふらっと店に立ち寄ったのが最初だった。
まるで居場所を探しているような、そんな目をしていた。

「その日、なんでこの店に来たの?」
ある日、春子がぽつりと尋ねた。

「…えっと、実は、母が昔ここのメンチカツが大好きで。子どもの頃、よく一緒に買いに来たんです。急に思い出して、来てみたら、まだやってて、驚きました」

春子は微笑んだ。
「そうだったのね。お母さん、元気?」

陽介は少し間をおいてから、小さく首を横に振った。
「去年、亡くなりました」

それを聞いて、春子は一瞬だけ目を伏せた。
「じゃあ、あなたがこの店に来てくれるのは…」

「母の味を、もう一度食べたくて。あの日の帰り道のこと、思い出したくて。…すみません、変な話ですよね」

「いいえ。とっても嬉しいわよ」

それからというもの、春子は毎週水曜日、陽介のために少しだけ多めに作るようになった。
揚げたてのメンチカツを紙袋に入れ、少しだけ笑顔で渡す。
それを受け取る陽介も、少しずつ表情が柔らかくなっていった。

ある日、陽介がこう言った。

「今日、実は母の命日なんです。だから、1個は墓前に持っていきます」

春子はうなずいて、袋に小さな紙片を入れた。
「これ、うちのレシピ。お母さんの味を、家でも作れるように」

陽介は驚き、そして目を潤ませながら、深く頭を下げた。

「ありがとうございます。…ずっと、忘れません」

その日から、陽介は週に一度の水曜日だけでなく、時々日曜日にも店を訪れるようになった。
手には、母の遺影と同じ写真立て。
中には、小さな手で握られた、子ども時代の陽介と、笑顔の母の姿があった。

春子は、それを見て微笑みながら思った。

――この味が、誰かの記憶になれるなんて、料理人冥利に尽きるわね。

そうして今日も、「肉のさいとう」のメンチカツは、誰かの心をじんわりと温め続けている。