深夜のバーは、まるで時間が止まったように静かだった。
東京・麻布の裏路地にひっそりと佇むその店「Étoile」は、看板も出していない。
けれど、毎週金曜の夜十時になると、彼女は決まって姿を現す。
名は、結城 澪(ゆうき・みお)。
年齢不詳、職業不明。
艶やかな黒髪と、どこか憂いを帯びたまなざしが印象的な女性だった。
「いつものを」
そう言って、バーテンダーの槙村は無言で頷き、棚の奥から一本のボトルを取り出した。
ラベルには「Ruinart Blanc de Blancs」の文字。
泡のきめ細やかさ、柑橘のような香り、余韻に残るミネラル感。
彼女のお気に入りだった。
シャンパンをグラスに注ぎながら、槙村はちらりと視線を送る。
「澪さん、今日は少し遅かったですね」
「仕事が長引いただけよ。たいしたことじゃないわ」
そう言って、彼女は静かにグラスを持ち上げた。
きらめく泡が、まるで何かを語りかけるように立ちのぼる。
「それにしても、あなたは本当に飽きないのね。このシャンパン」
「飽きるって、どういうこと?」
「毎週、同じものを頼む人は珍しい。普通は変化を楽しむものでしょ?」
澪はグラスを傾けながら、ふっと笑った。
「変わらない味って、時には救いになるのよ」
その声には、少しだけ揺らぎがあった。
けれど槙村はそれ以上、踏み込まなかった。
彼女の過去について知る客は誰もいない。
噂だけが静かに店の空気の中を流れている。
ある人は言った——彼女は元舞台女優だと。
またある人は——大企業の社長夫人だったとも。
けれど真実は、泡のように消えていった。
金曜の夜だけ、彼女は一人で「Étoile」に現れ、同じシャンパンを飲み、グラスが空になると無言で立ち去る。
まるで誰かとの約束を守るかのように。
そんなある夜、槙村はふと思い出したように問いかけた。
「もしそのシャンパンが手に入らなくなったら、どうします?」
澪は一瞬、手を止めたが、すぐに微笑んだ。
「きっと、来なくなるわね」
「そんなに…大事なんですか」
「ええ。これは、あの人との——最後の約束だから」
彼女はそう言って、グラスの底に残ったわずかな泡をじっと見つめた。
「まだ私が舞台に立っていた頃、ある男がいたの。演出家で、年上で…不器用だけど、誠実な人だった。いつも開演前に、楽屋でこのシャンパンを少しだけ一緒に飲んだの。それが彼のジンクスだったみたい」
「素敵ですね」
「ええ。けれど、ある日突然彼はいなくなった。何も言わずにね。手紙一つ残さず、ただ消えたの。人づてに聞いたのは…彼が病気だったってことだけ」
「……」
「彼が最後に言っていたの。『このシャンパンの泡のように、消えても君の記憶には残りたい』って」
それが、彼女が毎週この店に来る理由だった。
彼を想い、彼との時間を再生し、泡の向こうにいる彼と語らうために。
澪は最後の一滴を口に含み、そっと目を閉じた。
「変わらない味が、変わらない記憶を運んでくれるの。だから…今日も、ここにいる」
店内に流れるジャズの旋律と、泡の弾ける音だけが静かに夜を満たしていた。