ただいま、ごはん

食べ物

小町悠(こまち ゆう)は、生まれたときからお米が好きだった。
赤ん坊のころはミルクよりおかゆに喜び、小学生になるころには炊き立てのご飯の香りで目を覚ました。
高校の卒業文集に「将来の夢:お米屋さん」と書いたほどである。

だが、大学進学とともに都会に出た悠は、日々の忙しさに流され、気がつけばコンビニのパンやインスタント麺に頼るようになっていた。
自炊をする暇もなく、炊飯器は棚の奥で眠ったまま。
たまに実家から送られてくるお米も、結局食べきれずに悪くしてしまうこともあった。

「お米なんて、面倒だし時間かかるし……」

そう言って、悠は自分がかつてどれだけお米に愛情を注いでいたかを忘れかけていた。

ある日、講義の帰りに立ち寄った駅前の商店街で、ふと目に止まった小さな食堂。
暖簾には筆文字で「まいにち米」と書かれていた。

「……米?」

吸い寄せられるように扉を開けると、中はこぢんまりとして落ち着いた雰囲気。
木の香りがするカウンター席に座り、メニューを開くと、どれも「ごはん」が主役だった。

「白米定食、五穀米定食、玄米おにぎりセット……」

注文したのは「季節の釜炊きごはん定食」。
出てきたのは、湯気の立つ艶やかなごはんと、焼き魚、味噌汁、漬物だけという、シンプルな構成。
だがひと口食べた瞬間、悠の中で何かがはじけた。

「……うまい」

それはただの美味しさではなかった。
忘れていた記憶が、口の中にじんわりと広がっていく。
母が炊いてくれた朝ごはん、運動会の日のおにぎり、冬に食べたおじやの温もり。
悠の人生には、いつもごはんがあったのだ。

食後、厨房から出てきたのは、白い割烹着を着た年配の女性だった。

「美味しかったかい?」 「はい……すごく。あの、なんでこんなにごはんが美味しいんですか?」

彼女はにこりと笑いながら答えた。

「お米ってのはね、手をかけて炊いてやると、ちゃんと応えてくれるのさ。水加減も、時間も、火加減も、全部が大事。でもね、それ以上に大事なのは、“想い”なんだよ」

「想い……」

「そうさ。誰かのために、美味しく食べてもらいたいって気持ちで炊いたごはんは、ちゃんとその人の心に届くの」

それから悠は、週に一度はその食堂に通うようになった。
やがて店主の「おばあちゃん」こと坂口さんから、お米の炊き方を教わるようにもなった。
研ぎ方、水に浸す時間、釜の扱い方――一つひとつが、丁寧な儀式のようで、どこか懐かしく、心が落ち着いた。

あるとき坂口さんが言った。

「もしあんた、本当にお米が好きなら、自分で育ててみるといいよ」

「えっ、育てる……?」

その言葉が、悠の中で何かを動かした。
卒業後、悠は会社勤めを経て、ついに思い切って実家のある田舎に戻った。
そして祖父の古い田んぼを借り、最初は小さな区画から米作りを始めた。

失敗の連続だった。
水の管理を怠って苗を枯らしたことも、雑草に負けたこともある。
だが、毎年少しずつ収穫量は増え、味も良くなっていった。

五年後、悠は自分の名前を冠したブランド米「小町まい」を立ち上げ、オンライン販売を開始。
パッケージには「このごはんが、誰かの“ただいま”になりますように」という言葉を添えた。

初めて東京から「小町まい」を注文したのは、かつて通っていた「まいにち米」の常連客だった。

悠は今でも毎朝、ごはんを炊く。
ゆっくり、丁寧に、心を込めて。

だって、お米はちゃんと、想いを受け取ってくれるから。