風香堂の一杯

面白い

春の訪れを感じさせる三月の朝、古びた木造の茶屋「風香堂」の扉が静かに開いた。

店内には、湯気を立てる茶器の香りが満ちていた。
棚には各地から取り寄せた茶葉が並び、ほの暗い灯りが落ち着いた雰囲気を醸し出している。
店主の桐生誠一は、朝の日課として煎れた一杯の煎茶を口に運び、目を細めた。

「ふう……今日もいいお茶だ」

その声に応えるように、戸口の鈴が鳴った。
常連客の一人、藤原千尋がゆっくりと店に入ってくる。

「おはようございます、桐生さん。今日はどんなお茶をいただけるかしら?」

彼女は近くの出版社で働く編集者だった。
仕事の合間を縫ってこの店を訪れ、静かな時間を楽しんでいた。
彼女の好みは玉露。
柔らかな甘みと深みのある味わいが心を落ち着けるのだ。

「今日は春の新茶を用意していますよ。ちょうどいい頃合いです」

桐生は手慣れた動作で湯を沸かし、急須に茶葉を入れる。
湯の温度を確かめながらゆっくりと注ぎ、少し蒸らした後、小ぶりな茶碗に注ぎ分けた。

「どうぞ」

千尋は両手で茶碗を包み、そっと口をつけた。
ふわりと広がる香り、ほのかな甘み。
春の訪れを感じさせる一杯だった。

「……やっぱり、ここのお茶は格別ね」

そう言って微笑む彼女を見て、桐生は穏やかにうなずいた。
彼が茶屋を営む理由は、まさにこの瞬間のためだった。
温かいお茶が、人々の心をほぐし、日々の喧騒を忘れさせる——そのささやかな喜びこそが、彼の人生そのものだった。

「千尋さんも忙しそうですね。最近はどうです?」

「ええ、ちょっとバタバタしてるわ。新しい作家さんを担当することになって……その方、かなり気難しくて。でも、才能があるのよね」

「才能のある人ほど、こだわりが強いものです。お茶でも飲んで、ひと息ついてください」

「ありがとう。桐生さんのこのお茶があるから、頑張れるのよ」

そんな何気ない会話を交わしながら、二人はしばし静かな時間を楽しんだ。

その後も、店には次々と客が訪れた。
仕事の合間にひと休みする会社員、学校帰りの学生、近所の老夫婦——それぞれが好みのお茶を楽しみ、桐生の茶屋は穏やかな空気に包まれていた。

そして日が傾く頃、桐生はふと店の奥にある棚に目をやった。
そこには、亡き父が遺した茶壺がひっそりと佇んでいる。
幼い頃、父から教わった茶の淹れ方、香りの楽しみ方。
そのすべてが、今の彼の生き方に繋がっているのだと、改めて思った。

「……さて、もうひと頑張りするか」

そう呟きながら、桐生は再び湯を沸かした。
今日もまた、誰かの心をほぐす一杯を届けるために——。