幼い頃の記憶はあいまいだが、どうしても忘れられないものがある。
それは、暗く、狭く、息苦しい空間で泣き叫んでいた感覚だ。
広瀬雅人は子どものころから極端な閉所恐怖症だった。
エレベーター、電車のトンネル、狭い会議室——どこにいても逃げ場のない環境に入ると、心臓が激しく脈打ち、冷や汗が流れ、呼吸が浅くなる。
理屈では分かっている。
ここは安全だ、すぐに出られる。
けれども体が拒否するのだ。
ある日、彼は仕事の関係で地方の旧家を訪れることになった。
歴史的価値のある古い屋敷で、次のプロジェクトの舞台となる場所だった。
同行した同僚の川村が興奮気味に説明する。
「ここ、江戸時代から続く名家だったらしいですよ。だけど、ある時期から当主が突然消息を絶って、それ以来空き家になってるんです」
雅人は古びた木造の廊下を歩きながら、どこか胸騒ぎを覚えた。
木材の軋む音、湿った空気、そして漂うかすかなカビの匂い。
懐かしさと同時に、得体の知れない不安がこみ上げる。
「地下室があるらしいんですが、見てみます?」
川村の言葉に、雅人の背筋が凍った。
地下室——その言葉だけで、喉が詰まりそうになる。
だが、逃げ出すわけにはいかない。
取材の一環として、見ないわけにはいかないのだ。
「……行ってみよう」
自分に言い聞かせるように呟き、足を踏み出す。
案内人が軋む床を踏みしめながら、重厚な木の扉を開けた。
奥には暗闇が広がり、冷たい空気が流れ出してくる。
雅人の指先が震えた。
「大丈夫ですか?」
川村が心配そうに覗き込む。
「平気だ」
嘘だった。
だが、前に進まなければならない。
階段を一歩ずつ降りる。
足元の石が冷たく、湿気がまとわりつく。
灯りをつけると、地下室の中には古い棚や箱が無造作に積まれていた。
雅人はふと、隅にある小さな木箱に目を止めた。
なぜか分からないが、強く引き寄せられるものがあった。
恐る恐る蓋を開ける——その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
暗闇。湿った空気。
泣き叫ぶ自分。
小さな体を必死に押し込める大人の手——。
記憶が蘇った。
「お前はここで静かにしていろ」
聞き覚えのある声。
父だ。
幼いころ、悪戯をした罰として押し込められた暗闇の箱。
何度も叫んだ。
何度も叩いた。
でも、誰も助けてはくれなかった。
雅人は膝をつき、荒い呼吸を繰り返した。
手が震え、視界が揺れる。
川村が駆け寄るのが見えたが、声が遠い。
——そうだ、俺はここにいた。
過去の記憶が閉ざしていた扉を開け、恐怖の根源を突きつけた。
雅人は苦しさとともに、それを受け入れた。
逃げてはならない。
川村の肩を借りながら、ゆっくりと立ち上がる。
地下室を出た瞬間、息が急に楽になった。
雅人は空を見上げた。
もう、過去に縛られるのはやめよう。
広い世界は、いつだって自分を迎えてくれるのだから。