深夜のバー「エル・ソル」は、ネオンがぼんやりと灯る薄暗い空間だった。
カウンターの奥に並ぶ酒瓶の中で、ひときわ輝く琥珀色の液体――テキーラ。
オーナー兼バーテンダーの藤崎は、客が入るたびにグラスを磨きながら、その夜のドラマを予感する。
その夜、店のドアが静かに開いた。
入ってきたのは、長身で痩せた男。スーツの上着を片手に持ち、ネクタイは緩められていた。
男はカウンターの隅に座ると、低い声で注文した。
「テキーラを、ストレートで」
藤崎は黙ってボトルを取り、ショットグラスに黄金の液体を注いだ。
男はそれを一気にあおり、喉を焼くような感覚を楽しむように目を閉じた。
「きつい一日だったようですね」
藤崎が声をかけると、男は小さく笑った。
「まあな。人生、苦いことばかりでさ」
男は名刺を取り出し、藤崎の前に置いた。
そこには「遠山俊也」と書かれていた。
商社の営業部長らしい。
「テキーラは好きなんですか?」
「好きというか……これを飲むと、昔のことを思い出すんだ」
遠山はもう一杯を頼み、ゆっくりと語り始めた。
彼がまだ大学生だった頃、メキシコを旅したことがあった。
カンクンの海辺で出会った現地の少女、マリアと過ごした日々。
彼女は陽気で、歌が好きで、そして何よりもテキーラを愛していた。
彼女の笑顔とともにあったのは、いつも塩とライム、そしてショットグラスだった。
「彼女は、テキーラを飲むときだけは涙を見せなかったんだ」
遠山はグラスを見つめながら言った。
「それで気づいたんだよ。人は、苦しみを忘れるために酒を飲むんじゃない。思い出とともに、それを抱きしめるために飲むんだってな」
藤崎は黙っていた。
バーテンダーとして、客の語る物語には余計な言葉を挟まない。
「結局、俺は彼女を置いて帰国した。家業を継ぐために。けど、今でもふとしたときに思い出すんだ。あの夜の浜辺、潮風、テキーラの味……」
遠山は静かに笑い、最後の一杯を飲み干した。
「人生ってやつは、苦いな。けど、それを味わうために、俺は今日もテキーラを飲むのさ」
藤崎は軽く頷き、新しいショットを用意した。
「今夜の一杯は、マリアに捧げましょうか」
遠山は微笑み、ショットグラスを掲げた。
「サルー(乾杯)」
グラスが静かに鳴る音が、深夜のバーに響いた。