田中涼介は、シャンプーに異常なまでのこだわりを持つ男だった。
彼の朝は、シャンプーの匂いを確かめることから始まる。
寝起きのぼんやりとした頭でバスルームへ向かい、整然と並べられた数十本のシャンプーボトルを前に目を細める。
フルーティーな香り、ハーバルな香り、ミルキーな香り——その日の気分と天気に合わせ、慎重に選び抜く。
「今日は曇りだから、少しスパイシーなウッド系がいいかな……」
彼のシャンプー選びには哲学があった。
季節、気温、湿度、体調、そしてその日に会う人まで考慮する。
香りは彼にとって単なる嗜好ではなく、自己表現の一部だった。
シャンプーとの出会いは、彼が高校生の頃に遡る。
もともとは特に気にするタイプではなかったが、ある日、隣の席の女の子に「涼介くんって、いつもいい匂いがするね」と言われたことがきっかけだった。
それ以来、彼はシャンプーの香りに意識を向けるようになった。
最初はただの興味だったが、次第にそれは執着へと変わっていった。
美容室専売の高級シャンプーから、海外のオーガニックブランド、手作りのナチュラルシャンプーまで、彼のバスルームはまるでシャンプー専門店のようになった。
大学に進学すると、そのこだわりはさらにエスカレートした。
彼はアルバイト代の大半をシャンプーにつぎ込み、SNSで世界中のシャンプーマニアたちと情報交換をするようになった。
メーカーごとの違い、成分の効果、香りの持続性——彼の知識は専門家顔負けだった。
「涼介、また新しいの買ったの?」
ルームメイトの健太が呆れ顔で尋ねる。
「今回はフランスのブランドで、ラベンダーとベルガモットがブレンドされてるんだ。夜のリラックスタイムに最適な香りらしいよ」
「……お前、もう美容師にでもなれば?」
「それも考えたことあるよ」
実際、彼は美容業界に進むことも考えた。
しかし、彼の興味はシャンプーそのものにあった。
髪を切ることや染めることではなく、「洗う」という行為そのものに魅了されていた。
社会人になってからも、そのこだわりは変わらなかった。
むしろ、安定した収入を得たことでますます熱を帯びた。
休日には専門店や百貨店を巡り、新しいシャンプーを探し続けた。
そんなある日、彼は運命的な出会いをする。
都内のとあるセレクトショップで、新進気鋭の日本ブランドが発表したばかりのシャンプーを試していた時だった。
隣で同じくボトルを手に取っていた女性が、彼に話しかけてきた。
「このブランド、気になってたんですけど、どう思います?」
驚いて顔を上げると、そこには落ち着いた雰囲気の女性が立っていた。
シンプルな服装ながら、どこか洗練された空気を纏っている。
「成分は悪くないですね。ベースはアミノ酸系で、優しい洗浄力。香りはシトラスがメインだけど、ほのかにウッディな余韻があって、男性でも使いやすいと思います」
「すごい……そんなに詳しいんですね」
「まぁ、ちょっと趣味で」
そう言って照れくさそうに笑うと、彼女も微笑んだ。
「私、コスメ関係の仕事をしているんです。よかったら、もっとシャンプーの話を聞かせてもらえませんか?」
彼は思わず頷いた。
それが、彼女——美咲との出会いだった。
二人は意気投合し、シャンプーを通じて何度も会うようになった。
美咲は化粧品メーカーの企画職で、シャンプーの開発にも携わることがあった。
彼のマニアックな知識に興味を持ち、時には意見を求めるようになった。
「涼介くん、本当にすごいよ。こんなに情熱を持ってシャンプーのことを語れる人、初めて見た」
「そんな大したことないよ。ただ……やっぱり、シャンプーってすごいと思うんだ。香り一つで気分が変わるし、自分の印象まで左右する。僕にとっては、髪を洗う時間が一日のリセットなんだよね」
「……ねえ、一緒に何か作らない?」
美咲のその言葉に、彼の心が震えた。
それから数年後。
彼と美咲が共同開発したシャンプーブランドは、多くの人々に愛されるようになった。
香りや成分にとことんこだわったその製品は、「毎日のバスタイムを特別なものにする」というコンセプトのもと、大ヒットを記録した。
「これが、僕の理想のシャンプーです」
彼はそう言って、自らの作ったボトルを手に取った。
シャンプーにこだわり続けた男の物語は、こうして新たなステージへと進んでいった。