どら焼き屋「春の鈴」

食べ物

川辺町の小さな商店街に、新しいどら焼き屋がオープンした。
その名も「春の鈴」。
店主の春菜(はるな)は、30代半ばの女性で、優しい笑顔と器用な手つきが印象的だ。
小さな店だが、朝から焼きたての甘い香りが通りを包み、いつしか町の人々の心をつかんでいた。

だが、その裏には春菜の数々の葛藤と挑戦があった。

春菜がどら焼きを作るようになったのは、母親の存在が大きい。
幼いころ、忙しい両親に代わって家を守っていた祖母が、いつもどら焼きを焼いてくれた。
もちもちとした皮にたっぷり詰まった甘さ控えめのあんこ。
その味が春菜の心を暖め、どんな辛い日も彼女を励ましてくれた。

「どら焼きはただの甘いお菓子じゃないの。誰かの心を優しく包み込むお守りみたいなものなんだよ」

祖母のその言葉が、春菜の心に深く刻まれていた。

大学卒業後、春菜は普通の会社員として働き始めた。
しかし、日々の仕事に追われる中で、自分が本当にやりたいことは何なのかと考えるようになった。
心のどこかで満たされない想いを抱えながらも、安定を手放す勇気が持てなかった。

そんなある日、祖母が急逝した。
久しぶりに帰郷した春菜は、祖母が残した古いレシピノートを見つけた。
そこには、どら焼きの基本レシピだけでなく、彼女が試行錯誤して生み出した独自のアレンジやメモがぎっしりと詰まっていた。

「私が受け継げるものがここにあるかもしれない」

そう思った春菜は、会社を辞め、どら焼き作りを学び始めた。

しかし、実際に店を構えるまでの道のりは簡単ではなかった。
最初に挑戦したのは、地元のフードフェスでの出店。
祖母のレシピを元に何度も試作を重ねたが、初めての販売は惨憺たる結果だった。
見た目も味も既製品に負け、客足はほとんど伸びなかった。

「やっぱり甘かったのかな……」

心が折れかけた春菜を救ったのは、幼なじみの美香だった。
美香は、フェスで買ったどら焼きを大切そうに手に持ち、涙を浮かべながら言った。

「春菜のどら焼き、なんだか懐かしい味がしたよ。子どものころ、おばあちゃんと一緒に食べたあの味を思い出したの」

その一言が、春菜の背中を押した。

それから春菜は、地元の小豆農家と協力し、厳選した材料を使うことにこだわった。
皮には国産小麦と天然のはちみつを、餡には炊き方にひと工夫を加え、よりなめらかでふっくらとした食感を実現。
さらに「春の鈴」という名前には、祖母の名前「鈴子」にちなんで、どら焼きを通じて春の暖かさを届けたいという想いを込めた。

そしてついに、商店街の一角に店を構えた。
「春の鈴」の開店日は、町中の人々が訪れ、店の前には長い列ができた。
春菜が一つひとつ心を込めて焼くどら焼きは、噂を呼び、町を越えて評判が広がっていった。

ある日、春菜がカウンターに立っていると、一人の小さな女の子が店に入ってきた。
彼女は手にどら焼きを持ち、こう言った。

「おばあちゃんに食べさせたくて買ったの。でも、今日おばあちゃんが急に入院しちゃって……だから、お姉さんのお店で焼いたどら焼きのこと、もっと教えてくれる?」

春菜は驚きつつも、彼女を椅子に座らせ、どら焼きの由来や自分の祖母との思い出を話してあげた。
女の子は目を輝かせながら聞き、最後にこう言った。

「お姉さんのどら焼きって、魔法みたい。おばあちゃんも、きっと元気になるね」

その言葉に、春菜は思わず涙をこぼした。

「春の鈴」は、ただのどら焼き屋ではない。
そこは、心を通わせる場所であり、人と人を繋ぐ小さな奇跡が起きる場所だ。
春菜のどら焼きには、彼女の夢と想いが詰まっている。
そしてそれは、町の人々の心の中で、少しずつ新しい物語を紡いでいくのだった。