町のはずれにある小さなカフェ「カカオの森」は、地元で人気の場所だった。
店主の由美子が作るチョコレートケーキは、口に入れると溶けるような滑らかさで、ほんのりビターな甘さが絶妙だった。
その評判を聞きつけて、わざわざ隣町から訪れる客も少なくなかった。
そんな「カカオの森」に、毎週金曜日の夕方になると現れる青年がいた。
名前は直人。彼は黙々と窓際の席に座り、チョコレートケーキを一切れ注文しては、一口一口ゆっくり味わうのだった。
彼が店に来る理由を誰も知らなかったが、常連たちはその姿に慣れ、次第に「金曜の青年」と呼ぶようになった。
実は直人がチョコレートケーキを食べるようになったのは、ある小さなきっかけがあった。
彼は数年前、大学で大きな挫折を味わったことがあった。
長い間努力してきた研究が思うようにいかず、自分の存在意義すら見失いかけていたとき、偶然訪れた「カカオの森」で初めて由美子のチョコレートケーキを食べたのだ。
その瞬間、直人は驚いた。甘さと苦さが絶妙に混ざり合ったその一口が、彼の心に小さな灯りをともしたのだ。
自分の人生もこのケーキのように、苦い瞬間があったとしても、どこかに甘さがあるのかもしれない。そんな風に思えるようになった。
それ以来、直人は毎週金曜日に自分への小さなご褒美としてチョコレートケーキを食べることを習慣にしていた。
ある日の金曜日、直人がいつものように店に入ると、カウンターで由美子が困った顔をしていた。
「どうしました?」と直人が尋ねると、由美子は少し申し訳なさそうに答えた。
「実は今日、チョコレートケーキを切らしてしまったの。でも、もしよかったら新作のケーキを試してみてくれない?」
直人は少し考えたが、由美子の真剣な目を見て頷いた。
「もちろん、大丈夫です。」
出てきたのは、抹茶を使ったムースケーキだった。
見た目は鮮やかな緑色で、控えめにホワイトチョコレートがトッピングされている。
「ぜひ感想を聞かせてね」と由美子が笑顔で言う。
直人は一口食べた。
抹茶のほろ苦さとホワイトチョコの甘さが、まるでチョコレートケーキとは違った形で彼の心を包み込んだ。
思いがけない新しい味に、彼は少し驚きながらも笑みを浮かべた。
その日を境に、直人は少しずつ自分の世界を広げていった。
ずっと「慣れ親しんだ味」だけに頼っていた自分に気付き、少しの冒険も悪くないと思えるようになったのだ。
それは研究のアイデアにも変化をもたらし、長い間行き詰まっていたテーマに新たな視点を見出すことができた。
数カ月後、「カカオの森」を訪れた直人は由美子に一つの報告をした。
「ようやく研究がまとまりました。論文も無事に発表できそうです。」
その言葉に由美子は心から喜び、「おめでとう!今日は特別なケーキを作らせてもらうわ」と言って、厨房に駆け込んだ。
そして出てきたのは、いつものチョコレートケーキとは少し違う特別版だった。
濃厚なチョコレートムースの上に、小さな抹茶の層が添えられている。
「あの日のケーキを覚えていてくれたんですね」と直人は感動しながら、ケーキを一口頬張った。
口の中で広がる味わいは、直人の人生そのもののようだった。
苦さも甘さも、そして新しい挑戦もすべてが詰まっている。
その一口が、彼にとって何よりの祝福だった。