小さい頃から、直人には特別な癖があった。
犬の匂いが好きだったのだ。
柔らかい毛皮に染みついた土の香り、少し湿った独特の香ばしさ――それが直人にとって安心の象徴だった。
彼の家にはラブラドールの「ハル」がいて、幼い頃はその匂いを嗅ぎながら昼寝をしたり、本を読んだりしていた。
「直人、またハルに顔をくっつけてるの?臭くないの?」と母親が言うと、直人はいつも笑いながら首を振った。
「全然臭くないよ。むしろ落ち着くんだ」
しかし、直人が中学生になる頃、ハルは老いによる病気で亡くなってしまった。
そのときの喪失感は、直人にとって非常に大きなものだった。
ハルの毛皮を撫で、あの匂いを感じることができなくなるという現実に耐えられず、直人はしばらくの間、自分の部屋に閉じこもった。
その後、高校生になった直人は、少しずつその悲しみを乗り越えたかのように見えたが、心の中ではいつもハルの匂いを求めていた。
ある日、友人に誘われて地元の動物保護センターを訪れたとき、直人は何かに引き寄せられるように犬たちのケージに近づいた。
ケージの中には様々な犬たちがいた。
元気に尻尾を振る子犬もいれば、少し警戒心の強い成犬もいる。
直人はその中で、隅のほうに静かに座る中型犬に目を奪われた。
黒と白のまだら模様の犬で、目は少し寂しげだったが、直人が近づくとゆっくりと尻尾を振った。
「この子、名前あるの?」直人はスタッフに尋ねた。
「まだ名前は決まっていません。この子、保護されてからまだ日が浅くてね」
直人はその犬のそばに座り、そっと手を差し出した。
犬は一瞬ためらったが、直人の手を嗅ぎ、それから彼の膝の上に顔を乗せた。
直人は思わず目を閉じた。そして、その瞬間――あの懐かしい匂いが鼻をかすめた。
「ハル…?」思わずそう呟くと、犬は一声小さく鳴いて、さらに直人に顔を寄せた。
それから直人は毎週その犬に会いに行くようになった。
学校が終わるとすぐに動物保護センターへ向かい、ケージの前に座っては、犬の匂いを嗅ぎながら穏やかな時間を過ごした。
彼にとってそれは特別な癒しのひとときだった。
ある日、スタッフから「そろそろこの子を里親に出したいと思っているのですが、直人くん、どう?」と聞かれた。
直人はすぐに答えた。
「僕が引き取ります」
その日から、その犬は「ココ」と名付けられ、直人とともに新しい生活を始めた。
年月が過ぎ、直人は大学を卒業し、地元の動物病院で働く獣医師となった。
彼がこの職を選んだのは、ハルやココ、そして動物保護センターで出会ったたくさんの犬たちの影響だった。
彼にとって、犬たちの存在は特別なものであり、その匂いは心の奥深くに刻まれた記憶として生き続けていた。
ある日、診療中に一人の女性が連れてきたゴールデンレトリバーの老犬に出会った。
その犬は直人に静かに近づき、彼の手を嗅いだ。
そしてその瞬間、直人はまたあの懐かしい匂いを感じた。
それはハルの匂いとそっくりで、彼の胸が温かくなった。
「君たちは本当に不思議だな」と直人は微笑みながら呟いた。
犬はその言葉に応えるように尻尾を振った。
直人にとって犬の匂いは、単なる香りではなく、人生の中でつながりを感じるための大切な鍵だった。
そしてそれはこれからも、彼の生き方や選択を導いていくに違いなかった。