風の通り道に佇む小さな町に、一人の老人が住んでいた。
名前は秋山隆司、町の誰もが「タカじい」と親しみを込めて呼ぶその人は、長年の間、町外れの静かな丘で一人暮らしをしていた。
タカじいは孤独を恐れる人ではなかったが、ある年の春、ふと思い立ったように「コスモス畑を作ろう」と決心した。
それは彼がまだ若いころ、亡き妻の薫が「コスモスの花が好きだ」と言ったのを思い出したからだ。
薫はコスモスの可憐な花姿と、風に揺れるたおやかな動きをこよなく愛していた。
そして薫は「人生って、コスモスみたいだね」とよく口にした。
「どんなに風に揺られても根っこはしっかりと大地に繋がっているの。だからこそ、どんな時も笑顔でいられるんだよ」。
それは彼女の人生観そのものだった。
しかし、薫が亡くなってからというもの、タカじいはその言葉を忘れかけていた。
日々の暮らしに追われ、畑を耕し、時折訪れる町の人々と語らいながら静かに生きてきた。
けれど春風が吹き始めると、どうにも胸の奥がざわざわと落ち着かなくなり、気が付くと手にスコップを握りしめていた。
タカじいの家の裏手には小さな空き地があった。
その土地を耕し、コスモスの種を蒔くことから物語は始まった。
初めて土に触れるわけではなかったが、花を育てるのは久しぶりのことだ。
「ちゃんと咲いてくれるだろうか」と少し不安もあったが、毎日せっせと水をやり、土を丁寧に整えた。
ある日、近所の小学生たちがタカじいの畑を見つけた。
「何してるの?」と声をかけられた彼は、少し恥ずかしそうに「コスモスを植えてるんだよ」と答えた。
すると子どもたちは目を輝かせ、「手伝うよ!」と元気よく言った。
最初は一人で静かにやるつもりだったが、賑やかな声に誘われ、彼は子どもたちと一緒に畑仕事をするようになった。
夏が近づくと、芽が出始めた小さなコスモスの姿が見えた。
タカじいは毎日成長を観察しながら、心の中で薫に話しかけるように過ごした。
「薫、今年の秋には君が好きだったコスモスが満開になるよ」。
どこかで彼女が聞いているような気がした。
畑を通る人々も、日々変わる風景に足を止めるようになった。
「こんなところにコスモス畑ができるなんて思わなかった」「咲いたら家族で見に来よう」――そんな声がタカじいの耳に届くたび、彼の心には暖かな喜びが広がった。
秋、ついにコスモスが花を咲かせた。
畑一面に広がるピンク、白、紫のコスモスたちは、まるで風に踊るように揺れていた。
その姿は、タカじいが夢見た以上に美しかった。
町中の人々が集まり、子どもたちは走り回り、大人たちは写真を撮りながら笑顔を浮かべた。
「薫、見えるかい?」タカじいは畑の中心に立ち、静かに目を閉じた。
風に乗ってコスモスが触れる音が心地よい旋律のように聞こえる。
薫が愛したコスモス、そして彼が長い時間をかけて作り上げた畑。
それが今、町の人々に幸せを運んでいる。
コスモス畑はそれからも毎年咲き続け、町の風物詩となった。
そしてタカじいは時折訪れる子どもたちに、自分の人生と薫の話を語りながら、そっと微笑むのだった。
「コスモスはね、風に負けない強さを持ってるんだ。みんなも、どんなときでもしっかりと立っていられる人になれよ」。
コスモス畑を作った老人の物語は、やがて町の伝説となり、季節が巡るたびに新しい命がそこに根を張り続けていくのであった。