東京都下町の小さな商店街に、「やまもと漬け物屋」という老舗の店があった。
この店は戦後すぐに開業し、三代目の店主である山本康一が切り盛りしている。
康一は職人気質の人間で、漬物の味を追求する日々を送っていたが、彼にはある「常連客」の存在がいつも気になっていた。
その客は、毎週木曜日の午後三時きっかりにやってくる。
40代後半と思われる男性で、名前を村上誠一という。
誠一は、やや無口で、背が高く、いつも整った姿勢で立ち振る舞っている。
彼が必ず注文するのは「きゅうりの塩麹和え」。
康一が手作りするきゅうりの和物の中でも、特に評判の一品だ。
誠一がこの店を訪れるのは、もう十年以上続いていた。
ある日、康一は興味を抑えきれず、誠一に声をかけた。
「村上さん、毎回うちのきゅうりの塩麹和えを頼んでくださいますけど、そんなにお好きなんですか?」
誠一は少し驚いた表情を見せた後、微笑みながら答えた。
「ええ、好きなんです。ただの食べ物以上に、僕にとっては思い出の味なんですよ。」
康一は驚いた。
「思い出の味、ですか?」
誠一はうなずき、ぽつぽつと話し始めた。
彼が幼い頃、家庭はあまり裕福ではなかったが、母親が家計を切り詰めながらも作ってくれたのが「きゅうりの和物」だった。
誠一の母親は、季節の変化に合わせて味付けを少しずつ変えるのが得意で、その繊細な味わいが誠一にとって特別なものだったという。
「母が作るきゅうりの和物は、夏の暑さを忘れさせてくれる爽やかな味でした。それが、僕の幼い頃の数少ない楽しみだったんです。でも母は、僕が大学に入った直後に病気で亡くなりました。それ以来、あの味を探し続けていたんです。」
康一は誠一の言葉を黙って聞き、胸にこみ上げるものを感じた。
彼の手作りのきゅうりの和物が、誰かの人生にそんな深い意味を持つものになるとは思ってもみなかった。
「そうだったんですか…それは、お母さんの愛情そのものですね。」
誠一は小さくうなずき、続けた。
「山本さんの作るきゅうりの塩麹和えを初めて食べたとき、母の味がよみがえったんです。もちろん、まったく同じというわけではありません。でも、その優しさや細やかさが母の味と似ていて、まるで母に会えた気がしたんです。」
康一は少し照れくさそうに笑った。
「そんな風に言われると、作り手としてはうれしい限りですね。これからも、村上さんが来るたびに満足してもらえるように頑張ります。」
それからというもの、康一は村上の来店を心待ちにするようになった。
村上も、たびたび母親の思い出を語りながら、きゅうりの和物を味わう時間を楽しんだ。
ある日、誠一は康一に一冊のノートを差し出した。
「これ、母が残した料理のレシピです。山本さんに預けてもいいでしょうか?母がどんな味付けをしていたのか、僕も正確には覚えていません。でも、山本さんなら、もしかしたら再現できるんじゃないかと思って。」
康一はそのノートを慎重に受け取り、ページをめくった。
文字は年季が入っているが、ところどころに書き込みがあり、レシピに対する思い入れが感じられた。
「村上さんのお母さんの味、僕に挑戦させてもらえますか?」康一の言葉に、誠一は深くうなずいた。
それから数週間、康一はノートをもとに試行錯誤を重ねた。
材料や分量、漬け時間など細かい調整を繰り返し、ついに一つの完成品ができた。
誠一がその和物を口にした瞬間、目に涙を浮かべた。
「これです…これが、母の味です。」
その日、二人は店先で夜が更けるまで語り合った。
「やまもと漬け物屋」はその日から、村上誠一の母のレシピに基づく「特製きゅうりの和物」を新たな看板商品に加えた。
それは、訪れる客たちにとっても、どこか懐かしさを感じさせる特別な一品となった。
やがて店は、地元だけでなく遠方からも人が訪れるような人気店となり、康一と誠一の友情も深まっていった。
きゅうりの和物という小さな料理が繋げた人々の心は、これからも商店街の片隅で静かに息づいていくのだった。