ある夜、都心に向かう終電に乗っていた青年、佐藤は、自分の体が異様に重く感じることに気づいた。
仕事で疲れ果て、体力が尽きかけていたせいだと思い込んでいたが、何かがおかしいと感じる違和感があった。
彼が座っていた座席はガラガラで、車内にはわずかな乗客が点在している程度だった。
ちらりと見渡すと、車両の端に背の高い男が立っている。
黒いコートを身にまとい、顔は影に隠れてよく見えない。
その姿はどこか不気味で、佐藤は思わず目をそらした。
そのうち、ふと何かの視線を感じた。
車内の広告の反射で窓越しに自分の姿が映っている。
しかし、佐藤の隣の座席には誰もいないはずなのに、窓には黒い影が映り込んでいた。
何度か瞬きをしてみても、その影は消えない。
まるで、誰かが彼の肩越しに立っているかのようだった。
恐る恐る隣を見ても、誰もいない。
だが、再び視線を窓に戻すと、黒い影がさらに近づいている。
佐藤の背筋に冷たい汗が流れ、思わず目をそらした。
次の駅で乗客が数人降り、車内はますます静まり返った。
再び窓に目を向けると、今度は黒い影の顔がはっきりと見えた。
髪はぼさぼさで、血の気のない青白い顔に大きな目が虚ろに開いている。
その目がじっと佐藤を見つめていた。
恐怖に凍りつき、動けなくなった佐藤の耳元で、小さな囁き声が聞こえた。
「気づいたかい?」
その声は不気味に低く、冷ややかだった。
声の主がいるはずのない隣の座席に目をやるが、やはり誰もいない。
だが、窓にはその影がじっと佐藤を見つめている。
逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、体が鉛のように重く、一歩も動けない。
車内に流れるアナウンスが耳に届くが、なぜか内容が理解できない。
まるで現実感が失われていくようだった。
次の駅に着き、また数人が降りると、車両はほとんど無人になった。
しかし、その影は消えない。
それどころか、今度は影が座席から立ち上がり、ゆっくりと佐藤に近づいてくるのが窓越しに見えた。
恐怖に震えながら目を閉じ、必死に目を逸らすようにしていたが、まぶたの裏にその顔が浮かんできて、心臓の鼓動が早くなる。
「ここにいるよ。」
その声がはっきりと聞こえた瞬間、佐藤は目を開けて叫び声を上げた。
だが、車内には誰も反応しない。
それどころか、まるで彼の声が誰にも聞こえていないかのようだ。
不安と恐怖で心が崩壊しかけたその時、ふと気づいた。
彼が座っている座席の周囲がどんどん暗くなっている。
車内の照明が次々に消えていき、彼のいる車両だけが闇に包まれていく。
次の瞬間、電車が急停車した。
佐藤は転げ落ちるように座席から立ち上がり、出口へ向かおうとしたが、体が動かない。
背後から冷たい手が肩をつかみ、彼を座席に引き戻そうとするかのように強い力で押さえつけられている感覚があった。
ようやく目の前の扉が開いたが、目の前にはただの暗闇しか広がっていない。
駅のはずなのに、ホームも明かりも何も見えない。
恐怖が限界に達した佐藤は、体を必死に引きずるようにして扉から這い出ようとしたが、その瞬間、何かに足をつかまれた。
「逃がさない……」
その声が再び聞こえ、佐藤は必死に振り払おうとしたが、目の前がだんだんと暗くなっていく。
そして、視界が完全に闇に包まれたとき、意識が遠のいていった。
翌朝、駅員が終電の車両を点検していると、座席に佐藤がうつ伏せで倒れているのを見つけた。
彼は目を見開き、何かに怯えたような表情で息絶えていたという。
警察が調査を進めたが、異常な痕跡は一切なく、ただ彼の遺体が発見されたのみだった。
しかし、その後も終電の車両で「誰かの囁き声が聞こえる」といった報告が相次ぎ、次第にこの車両は「呪われた車両」と呼ばれるようになった。