食べ物

黄身ひとつ、命ひとつ

「それ、カルボナーラじゃないから」午後八時。常連でにぎわうイタリアンバルで、店主・斉藤剛の声が飛んだ。店内は一瞬静まり返る。カウンターの客が一斉に視線を向けた先には、若いカップルが手を止めていた。男の方が呆然とフォークを握ったまま固まってい...
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忍者に憧れた男

「――拙者、参上つかまつる!」午後三時、都内某所のオフィス街。スーツ姿の人々が行き交う中、一人だけ異様な格好をした男がビルの影から転がり出た。全身黒ずくめ、顔の下半分は覆面。背中には木刀、腰には手製の手裏剣ポーチ。「おい、またあいつだぞ……...
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潮の花

海辺の小さな研究所に、ひとりの若い海洋生物学者がいた。名を佐久間海(さくま うみ)という。大学院を修了し、東京から南へ数百キロ離れたこの離島に赴任して三年目になる。彼女の研究対象は、潮間帯に棲むイソギンチャクだった。「イソギンチャクなんて、...
食べ物

白い猫とラングドシャ

東京・中目黒の裏通りに、ひっそりと佇む小さな焼き菓子のお店がある。ガラス張りの扉を開けると、バターとアーモンドの甘い香りがふんわりと鼻先をくすぐり、奥の棚には宝石のように美しいラングドシャクッキーが並んでいる。この店、「NekoLange(...
動物

アルマジロを抱きしめた日

田辺(たなべ)清志(きよし)は五十代の独身男性だった。長年、区役所の窓口業務に勤め、最近ようやく早期退職を決めた。理由は「やりたいことを見つけたからです」としか周囲には言わなかったが、実のところ、それは――アルマジロだった。初めてアルマジロ...
食べ物

枝豆の味を覚えている

夏が来ると、正木和也は決まって枝豆を茹でる。部屋の窓を全開にして、扇風機を首振りモードにしたあと、湯気を立てる鍋の前に立つのが彼の毎年の恒例行事だった。今年の夏もまた、暑い。茹でたての枝豆の湯気が、台所の小さな窓から立ちのぼる。塩をふりかけ...
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海藻屋のしおり

小さな港町に、「海藻屋しおり」という看板を掲げた店があった。店主の名は本間しおり。三十代半ばの彼女は、町の誰よりも海藻が好きだった。わかめ、昆布、ひじき、アオサ、もずく——。乾物も生も、海藻という海の贈り物に彼女は目がなかった。子どもの頃か...
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ルイボスティーの午後

静かな午後、陽の光が古びたアパートの一室に柔らかく差し込んでいた。藍原美月(あいはら・みづき)は、お気に入りの白いカップにルイボスティーを注ぐ。赤みがかった透明な液体が湯気を立てるのを見つめながら、彼女はふっと息を吐いた。「やっぱり、この香...
食べ物

テールスープの香る場所で

冬の訪れを知らせる冷たい風が、東京の下町に吹き抜けていた。商店街の外れに、ひっそりとした食堂がある。「ヤマナカ食堂」と書かれた看板は、ところどころ塗装が剥がれ、年月を感じさせた。その食堂には、あるメニューがある。それは「テールスープ」だ。濁...
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赤土の庭

その村は、四方を山に囲まれていた。舗装された道はなく、バスも一日に二本しか来ない。けれど、その村には特別なものがあった。赤土だった。山肌も畑も、庭先までもが赤かった。鉄分を多く含んだその土は、雨に濡れると濃く深い朱に染まり、太陽の下では乾い...