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前髪の向こう側

鏡の前で、茜は長く伸ばした前髪を指でつまんだ。目にかかるほどの前髪は、小学生の頃からのトレードマークだった。顔を隠すように垂れるそれは、彼女の「鎧」だった。人と目を合わせるのが苦手で、教室ではいつも隅の席を選んだ。話しかけられると、答えるよ...
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発酵日和

東京の片隅、古びた商店街にひっそりと佇む小さな店がある。店の名は「発酵日和」。看板は木製で、手書きの文字が温かみを感じさせる。店主の名は水野沙耶(みずの さや)、三十七歳。もともとは広告代理店で働いていたが、激務とストレスにより心身のバラン...
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フリージアの咲くころ

毎年、春になると駅前の花屋にフリージアが並ぶ。黄色や白、時には淡い紫のその花たちは、どれも陽だまりのような甘い香りをまとっていた。佐々木紘はその花を見るたびに、ある一人の女性のことを思い出す。――奈々。大学時代、サークルで出会った彼女は、ど...
動物

雨とドッグカフェ

木造の小さな家の一階部分を改装したドッグカフェ「いぬもあるけば」は、町外れの静かな通りにあった。店主の佐々木千景(ささき ちかげ)は三十代半ば。落ち着いた雰囲気をまとい、犬たちにはいつも穏やかな声で話しかけていた。カフェには看板犬の柴犬「も...
食べ物

ラムの香りに誘われて

町の外れに「キッチン・バルバラ」という小さなレストランがある。洒落た名前に反して、出てくる料理はどれも気取らず、しかし驚くほど美味しいと評判だ。この店に、ほぼ毎日通ってくる常連客がいた。名前は有馬 透(ありま とおる)、三十五歳、独身、会社...
食べ物

ミックスジュースと月曜日

坂口遥(さかぐちはるか)は、毎週月曜日の朝にミックスジュースを飲む。それはもう、誰にも譲れない習慣だった。きっかけは二年前。遥がこの町に引っ越してきたばかりの頃、慣れない職場と一人暮らしのストレスで体調を崩しかけていた。そんなとき、たまたま...
食べ物

ビーフシチューの人

小さな町のはずれに、「クラール食堂」という古びた洋食屋がある。外観は年季が入り、赤茶けた看板にはうっすらと「創業 昭和四十三年」の文字。週末には観光客もちらほら訪れるが、常連の多くは地元の顔なじみだ。この食堂の名物は、なんといってもビーフシ...
食べ物

風のように甘く

その街には、風のようにやさしい味のするシフォンケーキを焼く小さな店があった。店の名前は「空色オーブン」。古びた商店街のはずれにひっそりと佇むそのお店は、表から見れば普通のベーカリーのように見えたが、店内にはシフォンケーキしか置かれていなかっ...
動物

リスのポンと森のキャンプ場

深い森の奥に、小さなリスが一人で営むキャンプ場がありました。その名も「どんぐりキャンプ場」。リスのポンが切り盛りしているこの場所は、季節ごとに違った顔を見せ、森の仲間たちに大人気でした。ポンは、働き者のリスです。春には草を刈り、夏にはテント...
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火のゆらめきを見るひと

山の中の古びたキャンプ場に、焚き火だけを見に来る男がいる。名を田島という。年齢は五十を少し過ぎたころだろうか。季節を問わず、月に一度は決まってこの場所に現れては、小さな焚き火を起こし、何をするでもなく炎のゆらめきをじっと見つめて帰っていく。...