動物

ビスケットの香り

犬の肉球の匂いを嗅ぐのが好きだと言うと、たいていの人は少し驚いた顔をする。けれど、私にとってそれは、心の奥にあるやさしい記憶を呼び起こす香りなのだ。その匂いに初めて気づいたのは、小学三年生のとき。その日、母が拾ってきた子犬をタオルに包んで私...
食べ物

アーモンド色の朝

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、キッチンのステンレスをやわらかく照らす。川辺美月は、いつものように冷蔵庫を開けて、アーモンドミルクのパックを取り出した。とくん、とグラスに注ぐと、淡いベージュの液体が小さな波を立てて止まる。その香ばしい香...
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風の通り道

春の終わり、田植えの準備で村が慌ただしくなりはじめた頃。佐織は、三年ぶりにふるさとの田園へ戻ってきた。大学を卒業して東京の会社に勤めていたが、仕事に追われるうちに、自分が何のために働いているのか分からなくなってしまった。そんな時、祖母が体を...
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白亜の約束

海沿いの小さな町、潮風町。中学校の理科教師・佐藤陽介は、休日になるとスコップとブラシを手に丘の上へ向かう。そこは町外れの崖地で、古い地層が顔を出している。彼にとって、それは静かな祈りの場所だった。子どもの頃から陽介は石が好きだった。川原で拾...
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冬の灯り

冬の朝、窓辺の鉢に咲くシクラメンが、淡い光を受けて小さく揺れた。花びらの裏に宿る紅が、まるで頬を染めるように温かい。「今年も咲いたんだね」由紀は指先でそっと葉を撫でた。冷たい空気の中に、かすかな土の匂いが広がる。シクラメンの鉢は、三年前に亡...
食べ物

よもぎ色の約束

春の風が山の裾をなでるころ、里の道端にはやわらかな緑が顔を出す。よもぎ――。その香りを嗅ぐと、花の季節の訪れを思い出す。紗英は小さな籠を手に、祖母と並んで土手を歩いていた。祖母は腰をかがめ、指先で葉の裏を確かめる。「これがいいよ。ほら、柔ら...
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星を拾う夜

高校二年の冬。空気が痛いほど澄んだ夜、海斗は学校の裏山にある小さな天文台にいた。冷えた金属の望遠鏡に頬を寄せ、息を止める。今夜は流星群の極大日だ。冬の星座がひときわ明るく瞬き、夜空の端から端へ、いくつもの光の筋が走っていく。天体観測が好きに...
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手袋の物語

冬のはじまりを告げる風が吹いた朝、花は引き出しの奥から古い手袋を取り出した。生成りの毛糸で編まれた、指先まで柔らかく包みこむような手袋。右の親指のあたりに少しほつれがあり、毛玉もところどころに浮かんでいる。けれど、その小さな手袋は、彼女にと...
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青い迷路の午後

休日の午後、陽介はいつものように古びた公園にいた。目的はひとつ、木の枝と落ち葉で「迷路」を作ることだ。子どものころから迷路が好きだった。線の中を鉛筆でなぞる単純な遊びに、彼は無限の可能性を感じていた。落ち葉を並べていくうちに、周囲の子どもた...
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黄金の道

十一月の風が、街をやわらかく撫でていた。並木通りを歩くと、足もとには黄金色の絨毯が広がっている。イチョウの葉だ。陽の光を受けてきらきらと輝くその葉の海を、由香はゆっくりと踏みしめた。毎年この季節になると、彼女はここを歩く。特別な理由があるわ...