食べ物

潮の香りのひと皿

早苗は、朝の市場が好きだった。まだ陽が昇りきらない時間に、海の匂いが風に混じって漂ってくる。波の音を背に、漁師たちの威勢のいい声が飛び交う。彼女はいつものように籠を片手に、海藻を並べた一角へと歩いた。「おはよう、早苗ちゃん。今日も来たね」「...
食べ物

チョコバナナ通りの約束

夏祭りの夜、屋台の灯りがぽつぽつと並ぶ通りに、甘い香りが漂っていた。湊(みなと)はその匂いをたどって、チョコバナナの屋台の前で足を止めた。――懐かしい。思わず胸の奥がきゅっとなる。子どものころ、毎年この祭りに来ては、必ずチョコバナナをねだっ...
食べ物

野菜スープの朝

朝、ゆっくりと光が差し込む台所で、ゆう子は鍋の中を静かにかき混ぜていた。玉ねぎの甘み、にんじんのやさしい香り、セロリの青さ。湯気の向こうで、まるで色と香りが語り合っているように感じる。彼女は昔から、野菜スープが好きだった。子どものころ、風邪...
食べ物

秋風に香るラ・フランス

山形の小さな果樹園で育った洋梨、ラ・フランス。その果実の甘い香りに包まれながら、佐和子は今日もジュースの仕込みをしていた。秋の午後、果樹園には金色の光が差し込み、熟れたラ・フランスが枝の間でふっくらと揺れている。「今年もいい香りだね」彼女が...
動物

夕暮れの帰り道

小さな町のはずれに、一軒の古い家があった。庭の柿の木の下で、柴犬の「こたろう」はいつも丸くなって眠っている。毛並みは陽だまりのようにあたたかく、鼻先は少し白くなり始めていた。もう十歳を越える老犬だった。こたろうの飼い主は、小学生の少女・美咲...
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月のかけらで撫でる夜

夜の静けさが好きだった。外では秋の虫が鳴いている。窓を少し開けて、ベッドサイドの小さな灯りをつける。木製の棚の上に並ぶガラス瓶たち——ラベンダー、ローズ、ユーカリ。香りの違いを感じながら、今日も奈央は小さな儀式を始めた。手の中に、ひんやりと...
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毛布のぬくもり

冬が近づくたび、結衣は押し入れの奥から一枚の毛布を取り出す。淡いクリーム色のその毛布は、もうところどころ毛玉ができていて、端の糸も少しほつれている。けれど、柔らかくて、包まると安心する。どんなに寒い夜でも、その毛布があれば眠れるのだ。結衣が...
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帰り道の楓

村のはずれ、小さな川のそばに一本の楓の木が立っていた。春は淡い緑、夏は濃い影を落とし、秋には火のように赤く染まる。冬は裸になって雪を受け止め、また春を待つ。百年近く、変わらぬ場所で風に揺れ、人々の暮らしを見つめてきた。昔、この楓の木の下で、...
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水車のうた

山あいの小さな村のはずれに、一つの古い水車小屋があった。木でできた羽根はすり減り、苔むした輪が静かに回るたび、きしむ音が谷にこだました。村の人々は「もうすぐ止まるだろう」と言いながらも、その音にどこか安心していた。水車小屋を守るのは、七十を...
動物

信号の向こうの相棒

朝の光が差し込む警察犬訓練センターの広場に、風が吹き抜けた。若い警察官・田島は、ハーネスを握りしめながら深呼吸する。目の前には、一頭のジャーマン・シェパード──名は「レン」。鋭い目つきだが、尻尾の動きはどこか柔らかい。「レン、今日は最後の試...