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光の届かぬ海で、命は語り合う

深い、深い海の底。太陽の光が千年も前に忘れ去られた場所で、青黒い闇が静かに息づいていた。そこでは音も色も薄く、かわりに“気配”だけが濃く漂っている。その闇の中を、ほのかな光がゆっくりと泳いでいた。チョウチンアンコウのルミは、頭の先の小さな灯...
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もう一度、役目を考える日々

冬の終わり、町の路地裏にある小さな長屋で、佐伯真琴は毎朝みかんの皮を干していた。網戸の内側、陽の当たる場所に広げられた橙色は、まるで小さな太陽の欠片のようだった。近所の人は不思議がったが、真琴にとってそれは日課であり、静かな祈りのようなもの...
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揺らぐ光を吹き込んで

海沿いの町に、古いガラス工房があった。潮の匂いが風に混じって入り込み、朝の光が大きな窓から差し込むその場所で、ガラス工芸家の蒼(あおい)は一人、炉の前に立っていた。赤く燃える炉の中で、溶けたガラスは生き物のようにゆらめく。蒼はその揺らぎを見...
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蹄音に宿るもの

町外れに、いつも金属の澄んだ音が響く小さな工房があった。朝霧の中で「カン、カン」と鳴るその音は、町の人々にとって一日の始まりを告げる合図でもあった。そこにいるのが、馬蹄職人のエイジだった。エイジは幼いころから馬が好きだった。父に連れられて初...
冒険

夕暮れの探検隊

夕暮れの町には、人間の知らない道がある。屋根と屋根の間、塀の上、路地裏の影。その道を地図も持たずに歩く者たちがいた――野良猫探検隊だ。隊長は、右耳の先が少し欠けた灰色猫のギン。年齢は誰にもわからないが、町の匂いを読む力は誰よりも鋭い。副隊長...
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グラスに注がれた二つの時間

古い港町の坂の途中に、看板も目立たない小さな酒屋があった。木の扉を開けると、ほの暗い店内に静かな時間が流れ、棚には色とりどりの瓶が並んでいる。その中央の棚に、いつも並んで置かれている二本のワインがあった。深い紅をたたえた赤ワインと、淡い金色...
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掌の庭 ― 手の記憶をやさしく包む店 ―

冬のはじまり、古い商店街の裏通りに「掌(てのひら)の庭」という小さなハンドクリーム専門店があった。看板は控えめで、気づかずに通り過ぎてしまう人も多い。それでも扉を開けると、ほのかに甘く、どこか懐かしい香りが迎えてくれる。店主のミサキは、毎朝...
食べ物

香りが残る午後 ― ゆずシャーベットの記憶

夏の午後、商店街のはずれにある小さな喫茶店「ミナト」には、いつも同じ時間に同じ客がやってくる。その人は三十代半ばの女性で、窓際の席に座り、メニューを開く前からこう言う。「ゆずシャーベットを、ひとつください」彼女の名前は澪(みお)。近くの出版...
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音を選ぶ人

町のはずれに、ひとりで暮らす青年がいた。名をソウタという。彼は、生まれつき「ものすごく耳がいい」人だった。遠くの踏切が下りる前の、金属がわずかに軋む音。雲が流れるときに風が変わる、その境目の気配。人が言葉にする前の、胸の奥で揺れたため息まで...
食べ物

ブロッコリーのある食卓

彼女の冷蔵庫には、いつもブロッコリーがあった。特売の日にまとめて買ったもの、新鮮な緑がまぶしいもの、少し茎が太いもの。どれも彼女にとっては同じくらい愛おしい存在だった。朝は軽く塩ゆでにして、昼はオリーブオイルとレモンで和え、夜はにんにくと一...