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静かな歩幅

早川理沙は、人混みが苦手だった。東京に住んで十年になるが、満員電車にはいまだに慣れない。誰かの息遣い、香水や汗の匂い、知らない肩が押しつけられる感覚。どれも彼女にとっては耐えがたいもので、乗るたびに胸の奥がざわついた。彼女の職場は新宿にある...
食べ物

春雨色の約束

ソウルのはずれ、小さな路地裏にひっそりと佇む食堂がある。店の名前は「ハルモニの味」。古びた木の看板に手書きの文字が味わい深く、通りがかる人が思わず立ち止まってしまうような、そんな温もりを感じさせる佇まいだ。この店の看板料理は、チャプチェ——...
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ガラスの靴に触れた日

幼い頃、茉莉(まつり)は祖母の家の本棚にあった一冊の絵本を何度も読み返していた。タイトルは『シンデレラ』。灰かぶり娘が魔法で美しいドレスをまとい、ガラスの靴を履いて舞踏会に現れる物語。その中でも、茉莉が特に心惹かれたのは、あの透明な靴だった...
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チューリップの約束

春の訪れを告げるように、町の小さな丘に咲き誇るチューリップ畑がある。その花畑を、誰よりも大切にしてきたのが、七海(ななみ)という女性だった。七海は幼い頃、祖母と一緒にチューリップの球根を植えた記憶がある。まだ手のひらよりも小さかったその球根...
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キラキラのかけら

町外れの古びた文房具店「つばめ堂」には、ひっそりと貼られたシール帳がある。陽に焼けた棚の隅に、それはまるで宝物のように置かれている。そんなシール帳を見つけたのは、小学六年生の早川ひなただった。ひなたは、キラキラしたシールを集めるのが大好きだ...
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香りの扉の向こうへ

駅から少し離れた、古いレンガ造りの路地裏に、その店はある。木の扉に白いリースが飾られた「Candle Atelier LUNA」。看板には、小さく「香りは、記憶を連れてくる」と書かれている。店主は三好茉莉(みよし・まり)、三十歳。彼女はもと...
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海の声を聞く人

潮の香りが混じる風が、朝の浜辺を優しく撫でていた。港町のはずれに住む青年・遥人(はると)は、毎朝決まって海辺の岩に腰を下ろし、水平線を眺めていた。何をするでもなく、ただ、波の音に耳を澄ませる。遥人が海を好きになったのは、幼い頃、祖父に連れら...
食べ物

塩と火と、鮭の香り

「鮭の塩焼きって、なんであんなに幸せな気持ちになるんだろうね」そう言いながら、湯気の立つ朝の食卓で箸を進めるのは、佐藤良太(さとう・りょうた)、三十五歳。地方の中小企業で経理をしている、ごく普通の独身男性だ。朝は白米に味噌汁、そして鮭の塩焼...
冒険

ぬいぐるみ探検隊と消えた月のかけら

夜の静けさが町を包むころ、子ども部屋の本棚の上に置かれたぬいぐるみたちは、そっと目を開けた。そこはぬいぐるみ王国「クッションランド」。人間たちが眠るときだけ、ぬいぐるみたちは自由に動けるのだ。その日、王国に異変が起きていた。空に浮かぶぬいぐ...
食べ物

レモンの木の下で

高校二年の春、陽太は初めて一人でレモンをまるごと一個かじった。酸っぱさで目の奥がジーンと痛み、しばらく口がきけなかった。だがその一撃が、まるで人生を変えるような衝撃だった。――これだ。それまで何に対しても無気力だった陽太は、レモンをかじった...