食べ物

白い細糸のひみつ

佐伯真一は、子どものころからえのき茸が好きだった。しゃぶしゃぶに入れたときのしゃくしゃくとした歯ざわり、鍋の底でひっそりと煮えて黄金色に変わった姿、そしてバターと醤油で炒めたときに漂う香り。そのどれもが、彼にとっては幼い日の記憶と結びついて...
食べ物

柑橘のきらめきを求めて

佐伯悠一は、食卓にポン酢がないと落ち着かない人間だった。朝の目玉焼きにも、昼の冷奴にも、夜の鍋や焼き魚にも、彼の隣には必ず琥珀色の瓶がある。酸味と旨味の調和、その一滴で料理がふっと華やぐ瞬間に、彼は日々の生き甲斐を見出していた。幼い頃、祖母...
食べ物

静かな漬けだれ

ラーメン屋「天光」の厨房は、昼の忙しさが一段落した午後のひととき、しんと静まり返っていた。カウンター越しに見える大鍋からは、まだ白濁した豚骨スープの湯気が立ちのぼり、店全体をやさしい香りで包んでいる。店主の亮介は、まな板にずらりと並んだ半熟...
食べ物

甘酸っぱい記憶

山あいの小さな村のはずれに、古い畑の跡があった。そこには耕す人もなく、石垣の隙間から風が通り抜け、季節ごとに草花が勝手気ままに伸びていた。その片隅に、ひっそりと根を張る木苺の茂みがあった。木苺は春になると白い小さな花を咲かせ、夏には赤く甘酸...
面白い

音の繭

大学進学を機に一人暮らしを始めた健太は、引っ越し荷物の中に父から譲り受けた古いヘッドフォンを入れていた。黒い革が少し剥がれ、金属のフレームには細かな傷が走っている。新品のような輝きはとうになかったが、耳を覆うと不思議と世界が静まり返り、音楽...
面白い

きゅっと締めて、前へ

朝の通勤電車の中で、佐藤はふと自分の胸元に目を落とした。結び目がやや歪んだネクタイが、ぎこちなく彼のシャツを押さえ込んでいる。鏡を見たときはきちんと結べていたはずなのに、電車に揺られているうちにずれてしまったらしい。彼にとってネクタイは、た...
ホラー

路地裏の赤い手形

その街には、誰もが知っているが口には出したがらない都市伝説があった。駅前から少し離れた古い商店街の裏手、人気のない細い路地を真夜中に通ると、壁に赤い手形が浮かび上がるというのだ。ただの落書きだろう、酔っぱらいがつけた手垢だろう。そう笑い飛ば...
面白い

金木犀の下で

秋の風が少し冷たさを帯びてきた頃、町の路地裏に金木犀の香りが漂い始める。橙色の小さな花が塀越しにのぞくと、人々は立ち止まり、懐かしいものを胸いっぱいに吸い込む。香りは記憶を呼び覚ます扉のようで、誰かにとっては子どもの頃の帰り道であり、誰かに...
面白い

梅昆布茶は心を結ぶ

春の風がまだ肌寒さを含んでいたある日、商店街の片隅に小さな茶舗「一服庵」があった。棚には緑茶やほうじ茶の缶が並び、奥には古びた急須や茶器が整然と置かれている。その店に一つ、控えめに目立たぬよう置かれていたのが「梅昆布茶」であった。梅昆布茶は...
食べ物

小さな実が結ぶもの

南国の太陽がじりじりと地面を焼き、潮風が葉を揺らす小さな港町に、ひとりの青年が住んでいた。名をリオといい、町で唯一のナッツ職人だった。彼は毎日、乾いた風にさらされる木々の実を拾い集め、塩で炒ったり甘く煮詰めたりして、港に立ち寄る旅人たちに売...